1953年から55年にかけて、大阪市東淀川区と摂津市で飼われていた農耕用の牛47頭が怪死する事件が起きた。調査を行なった大阪府環境衛生課や大阪大学医学部など19の機関は、ダイキン工業淀川製作所から流出したフッ素化合物によって、牛が心臓障害を負ったと考えた。ダイキンは、牛を失った農家に耕運機を提供して事を収めた。
しかし、ダイキンによる「公害」は、牛だけにとどまらなかった。
ダイキン工業淀川製作所のすぐ近くを流れる川(撮影/荒川智祐)
用水路に浮く大量の死んだ魚
大野明(仮名,64)は、ダイキン工業淀川製作所近くの摂津市別府(べふ)地区で生まれ育った。小学生だった1960年代は、自宅から摂津市立味生(あじふ)小学校までの通学路に遊び場がいっぱいあった。田んぼに手を突っ込んでオタマジャクシをとったり、畑のトマトをこっそりかじったりした。
ある日の学校帰り、近所の用水路に捨てられたビンを拾って友人たちと遊んでいた時のことだ。足首の高さまで水につかった。
そこへ、いきなり大人の男性の怒鳴り声が聞こえた。
「水路で遊んだら足が腐ってまうぞ、そこから上がれ ! 」
声の方を見ると、用水路の上に農業を営む友人の父親が立っている。大野と友人たちは急いで水路から上がって靴下を履いた。
なぜ怒られたのか、心当たりはあった。用水路に死んだ魚がたくさん浮いているのを見たことがあるし、地区の大人たちはこんな噂をしていた。
「ダイキンの淀川製作所の敷地内に、工場で出た化学物質を捨てている『池』と呼ばれる場所がある。その池からの排水が近くの水路に流れ出てるんや」
大野にはその「池」が一体何なのか見当がつかない。そもそも目と鼻の先にある淀川製作所が何をしているところなのかも分からない。不安だけが募った。
突然やって来た軍需工場
摂津市の淀川製作所周辺は、淀川の本流や支流の神崎川、安威川(あいがわ)に囲まれている。湿地だったところにかつては田畑が広がっていた。住民のほとんどが農家で、米や野菜を育てて生計を立てた。
淀川水系から田畑に水を引くため、大小様々な水路が碁盤の目のように張りめぐらされた。大野が少年時代に遊んでいた用水路もその一つだ。
長閑な農村に、ダイキンの前身である大阪金属工業の淀川製作所が建設されたのは1941年のことだ。敷地は甲子園球場の約17個分にあたる66万平方メートルあった。
当時は戦争の真っ只中。淀川製作所は軍需工場としてスタートを切った。「ダイキン工業70年史」によると、海軍艦政本部長から、航空機や食糧庫の冷却装置に欠かせないフロンの製造を命ぜられた。
1942年7月には海軍艦政本部が管理する化学工場が敷地内に設けられた。淀川製作所は砲弾や爆撃機の部品を製造する大工場になっていく。
戦時中に、フッ素化合物の一種であるフロンを扱う化学工場として発展したことが、戦後のPFOA開発へと繋がる。
70年史では、PFOAなど戦後のフッ素樹脂の開発の経緯について、次のように記述している(カッコ内はTansaの補足)。
「先発の米国デュポン社に追いつき追い越せが大きな目標になったのはいうまでもないが、淀川製作所の岡村一夫常務取締役所長がフッ素樹脂進出に踏み切った背景には、“ダイフロンガス”をベースに、フッ素化学そのものの総合化を図ろうという構想があった」
「フッ素樹脂の開発は(昭和)26年10月、“テフロン”(デュポン社の登録商標)と呼ばれる1枚の名刺半分大の白いシートから始まった」
「『化学事業をフッ素化学中心に展開する』という方針を決めた岡村所長は、(昭和)27年1月、舟阪渡京都大学教授を顧問に、19人のスタッフで『弗素化学研究委員会』をスタートさせた」
ダイキン工業淀川製作所近くの用水路(撮影/荒川智祐)
ガス漏出事故を繰り返したダイキン
フッ素化学の研究開発が進み、PFOAなどフッ素化合物を市場に送り出していく一方で、地域の公害対策は杜撰だった。
工場の稼働当初から、工場排水は外部に排出し農家が使う用水路に流れ込んだ。ダイキン自身が70年史の中で次のように認めている。
「工場創設当初から、工場排水は地域排水と合流し、外部の神安(しんあん)用水路へ流出していた」
少年だった大野のことを「足が腐るぞ、用水路から上がれ」と農家の大人が叱ったのには、根拠があったのだ。
工場排水だけではない。1955年6月29日には工場からフッ素ガスが漏れ出す事故が起きた。地域の田んぼの稲が枯れて、黄色く変色した。
1955年6月30日付の毎日新聞は以下のように書いている(カッコ内はTansaの補足)。
「三島郡味生村、大阪金属淀川工場付近の約8町歩(8万平方メートル、甲子園球場約2個分)にわたる稲田が二十九日バタバタと黄色に変色、枯れているので耕作者が騒ぎ出している旨同村役場から三島地方事務所に報告があった。地方事務所では所長、経済課長らが現場視察を行ったところ大阪金属淀川工場から排出された無水フッ素ガスによるらしいので善処を要望した」
「会社側では製作過程によるものではなくパイプが破損したのと機械の故障によるものだと認めたので、早急に修理を行い被害の再発を防ぐよう警告した」
ガスの漏出事故はその後も起きる。
1963年5月には農作物が被害を受け、その年の11月に農家が抗議のため淀川製作所に押し寄せた。
1973年6月には、摂津市だけではなく隣の大阪市東淀川区までガスが到達。340世帯が避難した。農家が育てた野菜は焼け焦げる被害を受けた。
淀川製作所の周辺住民に対応するため、ダイキンは1973年8月に「地域社会課」を設ける。この課の責任者に就いたのは淀川製作所副所長の井上礼之。その後1994年に社長に就任、今も会長としてダイキンの中枢にいる人物だ。
ダイキンの70年史では地域社会課について「地域に対応する専門組織は各企業に先駆けるもの」と紹介し、発足の理由をこう記述している。
「事故があって初めて対応するという“受け身姿勢”を反省、地域社会に積極的に対応していくことの必要性を痛感した」
大阪府「汚染者原因負担という意味で、責任はダイキン」
地域社会課ができたものの、工場排水の対策はなかなか整わなかった。第一次の排水対策を行ったのは、地域社会課ができてから8年後の1981年のことだ。
その後も工場排水対策を重ねていくが、不十分だった。2019年の環境省による地下水や河川の調査では、摂津市の地下水のPFOA濃度が全国ダントツの数値を記録することになる。ダイキンはPFOAの汚染源について、淀川製作所は「可能性の一つ」と言及するのに留めているが、行政は違う。大阪府環境管理室事業所指導課・化学物質対策グループ課長補佐の西井裕子は、Tansaの取材にこう答えた。
「責任は、汚染者原因負担という意味では、ダイキンさんという形になるかと思います」
約70年間にわたり公害を繰り返してきた淀川製作所。ダイキンは地域住民に対して、どのように接してきたのだろうか。次回、報じる。
淀川製作所の地域社会課長を務めた井上礼之氏。今はダイキンの取締役会長兼グローバルグループ代表執行役員だ=『ダイキン工業70年史』より
=つづく
(敬称略)
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