公害「PFOA」

牛47頭が怪死、ダイキンが耕運機をくれた(1)

2021年11月26日6時30分 中川七海

2021年11月、大阪・摂津市で検査を受けた住民9人全員の血液から、高濃度の毒性化学物質「PFOA(ピーフォア)」が検出された。最も高い人で、非汚染地域の70倍。9人は、1960年代からPFOAを製造していたダイキン工業淀川製作所の周辺に住んでいた。速報で報じた。

 PFOAは、有機フッ素化合物で水や油をよく弾く。フッ素加工の「焦げ付かないフライパン」や防水の衣服、化粧品といった日用品として広く使われてきた。米国の化学メーカー「デュポン」などが1930年代からPFOAの製造を始めた。 

米国では1950年代から、動物実験を通じてその毒性が明らかになっていく。デュポンは1981年、PFOAの製造ラインで働いた出産後間もない女性7人を調査した。全員の血中から高濃度のPFOAが検出され、2人の子どもは目に障害を負っていた。2012年には米国の科学者たちが、PFOAに被曝した約7万人の調査を実施し、妊娠高血圧症や腎細胞がんなど6種の健康被害との関連を結論づけた。 

ところが日本では、PFOAの実態が知られていない。経産省が製造や輸入を禁止したのは、先月のことだ。

ダイキンなど日本のPFOA製造企業は、いつからPFOAの危険性を知っていたのか。行政はなぜブレーキを踏むのが遅れたのか。日本でも健康被害が出ているのではないか。本シリーズで明らかにしていく。

ダイキン工業淀川製作所の近くを流れる用水路(撮影/荒川智祐)

ダイキン社員の「大丈夫ですよ」を信じられなかった

2020年6月、大阪・摂津市に住む吉井正人(仮名,69)の自宅を、作業着をまとったダイキン総務課の50代の社員2人が訪れた。数日前のテレビのニュースをみた吉井が呼んだのだ。

ニュースは、環境省による地下水や河川の全国調査の結果を報じていた。世界中でPFOAの毒性が認められていることや、国際条約でPFOAが最高ランクの危険物質に認定されたことを受け、環境省でも情報を集めるために実施された調査だ。工場などPFOAの排出源に近い全国171箇所を調べた結果だった。

摂津市の値はダントツだった。

環境省の「令和元年度PFOS及びPFOA全国存在状況把握調査の結果について」(2020年6月11日発表)より、検出値の上位10地点を抜粋

吉井はダイキン工業淀川製作所から7メートルの場所に畑を持っている。井戸水で水やりをし、ナスやジャガイモなど採れた野菜を日常的に食べていた。自身の体に、PFOAが入っているか心配になった。

吉井の心配をよそに、ダイキンの社員は1枚の紙をカバンから取り出して言った。

「グラフにあるように、この地域のPFOAの値は下がってきています。お宅の井戸水も大丈夫ですよ」

そう言われても吉井は信じられなかった。

「うちの畑の野菜や土、井戸水、私と家族の血液を検査してくれませんか」

だがダイキン社員は、同じ紙を指差しながら「数値が下がっていますし、個人の要望は受けられません」と断った。30分ほどで帰っていった。

ダイキン社員に検査を断られた吉井が、京都大名誉教授の小泉昭夫(環境衛生学)に検査をしてもらったのは、その翌月のことだ。2021年10月にも再検査を受けた。ダイキン社員の言葉とは裏腹に、いずれも高濃度のPFOAが出た。

自宅にやってきた社員は2人とも、吉井とは顔なじみで地域住民との窓口を担う社員だ。吉井は言う。

「会社が決めたストーリーを伝えにきたことはすぐにわかった。それでこちらが納得するとダイキンは思ってるんやろうな」

ではなぜダイキンは吉井が納得すると踏んでいたのか。理由について、吉井は「ダイキンはこれまでも公害問題を起こしていて、地域住民はいなされてきたんです」と語る。

その「公害問題」の始まりに、牛47頭が死亡した68年前の事件がある。淀川製作所がPFOAとは別のフッ素化合物を製造していた最中に起きた。

「モーモー」と2回鳴いてバタン

1953年、西野忠義(78)は、ダイキン工業淀川製作所から1キロにある大阪市東淀川区の農家の子どもだった。あたり一帯は田畑で、100軒ほどの農家があった。

西野の日課は、農耕用に飼っていた牛の世話だ。西野は牛のことが「大好き」。農耕作業がない日は小学校へ行く前に、近くの河川敷へ連れて行った。10メートルほどのロープにつないで淀川の水を飲ませたり、草を食べさせたりした。学校が終わると牛を迎えに行き、牛舎まで連れて帰った。

10月、西野が近所を歩いていると、牛の鳴き声が聞こえた。声の方を見ると、農耕作業をしていた他の農家の牛が倒れている。牛の近くにいた人たちが近寄ると、すでに死んでいた。

牛の突然死は、23年に渡って続いた。​​病気をもっていたり、暴れたりする前触れはない。東淀川区で36頭、摂津市で11頭が死んだ。西野が世話をしていた牛も犠牲になった。新たに仔牛を1頭飼ったが、その仔牛も同じように死んだ。

「モーモーって2回鳴いたら、バタンと倒れて死ぬねん。みんな同じ死に方やった」

当時の新聞記事。ダイキン工業淀川製作所が発行した『本館解体にあたって〜72年の歩み そして 新たな未来〜』より

「耕運機でごまかされた」

地区では、人も死んでしまうのではないかという不安が広がった。子どもから大人まで地元の公民館に集められ、行政による一斉の検査が行われた。西野も採血や便の検査をしたが、異常は見つからなかった。 

大阪府や大阪市も動き出した。大阪府農林部畜産課や大阪市立衛生研究所衛生化学部など19の機関による調査が進められた。その結果死因は、ダイキン淀川製作所から流出したフッ素化合物による心臓障害であると調査チームは考えた。製作所のフッ素化合物を含んだ汚染水が、川や灌漑用水に流れこみ、それを牛が飲んでしまったのだ。

農家たちは、農作業に必要な牛が死んで困り果てた。

そこへある日、ダイキンから耕運機が届けられた。西野の住む地区には5つの自治会があった。それぞれ1台ずつ、全部で5台の耕運機を無償でダイキンがくれた。牛がしていた作業の穴を、耕運機が埋めた。 

だが牛が大好きだった西野は納得がいかない。ダイキンは、牛が死んだ理由も耕運機を配る理由も説明しなかったからだ。西野は言う。

「あの時農家は、耕運機でごまかされてもうた」

ダイキンはTansaの取材に対して、次のように回答した。

牛の死亡原因について。

1953~55年頃、東淀川区と摂津市の一部地域で農牛が複数頭へい死する出来事があり、当社が当時扱っていた薬品原料の排水等が原因ではないかと疑われたことがありました。本件については、大阪府・市も介入して本格的に調査を行い、当社としても情報の収集や原因究明に努めましたが、2~3年経っても統一的な結論は出ませんでした」

耕運機を農家に譲渡した理由について。

「当社としては、大阪府の仲介もあり、本問題発生に伴う地域の農民の方々の不安を解消する措置の一策として、当時淀川製作所で製造していた耕運機の譲渡を行いました」 

デュポンを追ってPFOA製造へ

フッ素化合物の開発に、ダイキン淀川製作所は1940年代から力を入れてきた。高度な技術が必要とされ、ダイキンは常に米国の後を追った。最大のライバルは、デュポンだ。

そのデュポンが、PFOAを使ったテフロン加工の製品を1950年代後半に大ヒットさせる。ダイキンも1960年代後半には、PFOAの製品化に成功する。

以後ダイキンは、PFOAで日本市場から利益を上げていく。

淀川製作所がある摂津市は、「ダイキン城下町」としての恩恵と代償を引き受けることになる。

ダイキン工業淀川製作所の看板(撮影/荒川智祐)

=つづく

(敬称略)

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