一本の苗を家で育てている。ヤブツバキだ。
2年前にもらったときは、葉っぱが8枚あるだけの細い一本の苗だった。去年の秋に初めて枝を出し、今年の春には5本の枝が一気に伸びた。冬の間、ずっと準備していたでのだろう。
太陽に近づきたいのか、葉っぱを窓ガラスにベッタリと付けている。鉢が小さくなってきたが、「いつか引っ越すときに大変だから、このままでいいか」と思ったままでいる。
実は、この苗の「お母さん」は広島の原爆で生き残った木だ。「子ども」である苗を「被爆樹木二世」と呼ぶ。しかし、私は今まで「お母さん」に会いに行ったことがなかった。場所さえ分からなかった。今回の「五感」をきっかけに、挨拶に行ってみようと考えた。
私の鉢にはラベルが刺してある。「被爆ヤブツバキ、W14b29-01」。番号から「爆心地の西側にあった(W)」「植え替えられた(b)」など過去の記録や「お母さん」がどこに植えてあるかがわかるようになっている。
しかし、広島市が公開している被爆樹木データベースで検索すると、「W14b29-01」はヤブツバキじゃなくてナツメらしい。実際に確認してみようと、データベースが示していた平和大通りにあるナツメを見に行った。すると葉っぱの形が明らかに違う。そこで今度は、データベースでヤブツバキが植えてあるという場所に向かうことにした。
広島市中区にある吉島稲生神社だ。爆心地から南に2160メートル。ヤブツバキ以外に、3本の被爆樹木もある。爆風に耐えたエノキ、エレガントなクロマツ、そして立派なクスノキ。
データベースによると、これらの木が神社の社務所を爆風から守り、原爆投下直後に焼け出された人々の治療が行われたそうだ。
被爆樹木を長年担当していた樹木医さんにメールを送ってみた。神社のヤブツバキは「樹齢約120年。広島市西区己斐の植木屋さんから、神社の関係者が購入した」というファミリーヒストリーだった。
神社で話を聞くつもりだったけれど、意外と小さい神社だったので、誰もいなかった。ただ、石鳥居の隣に立っているのがヤブツバキだとすぐに分かった。
北側に急な角度で傾き、柱で支えられていた。低いところに朽ちた穴があり、足が悪くて杖を使っているようにも見えた。
しかし、これは原爆の影響だと言い切れない。樹木医さんによると、この木の被爆樹木の特徴としては、「葉に斑(まだら)模様が入る」という。確かに黄色い斑が入っている葉っぱもあった。
だが、枝には大きな実がたくさん付いていた。いまでも子どもを産もうとしているのか。やっぱり、お母さんの木だ。
広島の被爆樹木は、さまざまな意味を与えてくれる。被爆者の中には、焼かれた幹から出た緑の芽を見て前向きな気持ちになったという人もいる。広島市や市民団体は、二世の苗や種を「平和のメッセージ」として世界中に送っている。
私にとって、被爆樹木にはまた別の意味がある。
近年、被爆樹木がメディアで発信されることも増えてきた。私も発信する側に立ったことがある(今回もそう)。その経験で思ったのは、声のないものに代わって声を上げることは素晴らしい一方、言いたい放題の一方通行になる恐れだってあることだ。
人間が都合良く話しているだけになっていないだろうか。声を上げることって、どれくらい大きな特権なんだろう。場合によっては人間だって「声を上げられない」ことがある。そのとき、自分の「特権」をどうやって使うのか。
吉島稲生神社から家に帰った私は、「五感」を書き終えてPC閉じ、鉢植えに水をあげた。声を上げる意味をいつも思い出させてくれるヤブツバキ。お母さんの木の話をゆっくり聴くため、また会いに行こう。
英語版エディター アナリス・ガイズバート
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