2013年5月、私は宮城県の気仙沼市を訪れました。
港から2キロ離れた住宅でさえ、津波に流されて基礎が剥き出しのまま。辛うじて残った建物には津波の到達点が分かる線が残っていました。高さは私の背を遥かに超えています。家屋の残骸には津波の臭いが残っていました。
2泊3日の滞在中、多くの若者に出会いました。避難先の手前まで大火災が迫り、死を覚悟した中学生。震災の経験の語り部をはじめた高校生。放射性物質が心配で、地元の海産物は食べないと話す、気仙沼出身の大学生。
ある高校生が私に「話を聞いてほしい」と言ってきました。
「避難所で生活していると、東京からテレビ局の人が連日来る。そして『一番可哀想な友達を紹介して?』と聞かれる、これが日常茶飯事だ」
「一番可哀相な友達を紹介してほしい」という記者など必要でしょうか。こんな取材態度で、被災地の現実が伝えられるとは思いません。私は憤りを覚えました。
でも憤るだけでは、何も変わりません。メディアに頼らず被災地の真実を伝えるためのスキームを作ることにしました。直接現場を見れば、メディアは必要ないからです。
当時は、ボランティアやスタディーツアーが多数ありました。ただ、現地を訪れるのに、もっと気軽なきっかけがあっても良いと思い、音楽イベントを立ち上げることにしました。
4年間で3回のイベントを被災地で開催しました。地元の高校生からプロのロックバンドまで出演し、計300人が全国から被災地に集まりました。
大学卒業後は、国際NGOで3年間働きました。人権、環境、教育、医療問題など分野を問わず、社会にある悲惨な課題を、根本から解決する人々をバックアップする組織です。
世界90か国以上の人々と日々やりとりする中で、気づいたことがあります。
それは、不条理ことが起きても「仕方ない」「社会はそんなもんだ」とあきらめている人が、日本では多いということです。
そういう社会でこそ、メディアが踏ん張って闘うべきだと思います。市民の声を拾い上げ、プロの技術で代弁し、物事を変える力があるからです。しかし、日本のメディアは闘うどころか、声を挙げる人を応援することすら十分にしていません。
私は国際NGOを辞め、ジャーナリズム専攻でアメリカ留学へ行くことにしました。
ところがちょうどアメリカの大学に合格した2020年初め、ワセクロ編集長の渡辺さんと会いました。私が務めていた国際NGOに渡辺さんが仕事で訪れ、話が盛り上がりました。
渡辺さんは、事態を変えるにはファクトの積み重ねが最重要であることや、日本のジャーナリスト育成の行き詰まり、さらにワセクロは常に海外のジャーナリズム組織と手を組み活動している点について話しました。気づけば2時間ぐらい経っていました。
「留学は必要か?」。渡辺さんと話をする中で、ふとそんなことを思いました。
アメリカで学び実践したいことを、すでにワセクロがやっていたからです。
「真実を掘り起こし犠牲者を救おうとする本気のジャーナリズム組織が日本にあるなら、最高じゃないか」。直感的にそう思いました。
それから何度もワセクロのメンバーに会いに行き、話を聞きました。CEOの荒金さんは「大変すぎて誰も手を付けない案件を、この人たちは、楽しみながら本気でやっちゃうんだよねー」と言い、シニアリポーターのロベルトさんは「私も含めて、みんな有志で集まっているから、エネルギーが違うよ」と話しました。
次第に、ワセクロは「仕方ない」で済まさない集団だと気付きました。
せっかく決まっていたアメリカ留学ですが、悩んだ末、辞退しました。ワセクロでジャーナリストになると決めました。
気仙沼での経験のように、ワセクロを選んだことが、次のマイルストーンになる予感がしています。
リポーター 中川七海
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