葬られた原発報道

「危機管理人」の登場 (7)

2019年11月12日18時26分 渡辺周

朝日新聞社は、吉田調書報道についての朝日新聞バッシングに応える「詳報記事」を、2014年9月5日の朝刊で出そうとしました。内容は「過酷事故に対処するのは誰なのか」を問うものでした。

しかしそれは、9月3日に掲載中止が決まってしまいました。その時、朝日新聞社内で大きな混乱が起きていたのです。

社長特命で大阪から乗り込んできた常務

朝日新聞東京本社に9月3日、大阪本社から一人の役員が乗り込んできます。大阪本社代表で常務の持田周三さんです。持田さんは政治部出身の「策士」といわれる人で、日増しに激しくなる「朝日バッシング」への危機管理のため、社長の木村伊量さんが呼びよせました。

持田さんは、東京本社15階の自分の役員室に4人の編集幹部を呼びつけました。

呼ばれたのは、ゼネラルマネジャーの市川速水さん、ゼネラルエディター(編集局長)の渡辺勉さん、取材チームが所属する特別報道部長の市川誠一さん、ゼネラルマネジャー補佐の菊池功さんです。

4人から吉田調書報道への批判に応える詳報について説明を聞くのが、持田さんの目的でした。

15階役員室で「詳報」のボツ決定

持田さんは編集幹部4人から詳報紙面についての説明を聞き、怒ります。深刻化する朝日新聞社の現状を反映していないと、持田さんは受け止めたからです。

朝日新聞の社説などが載る「オピニオン面」には、ジャーナリストの池上彰さんが担当する「池上彰の新聞ななめ読み」というコラムがあります。2014年8月29日掲載予定の池上コラムの原稿が、朝日新聞を批判していました。池上さんは、慰安婦問題の検証でウソの証言を元にした記事を取り消したのに、朝日新聞が謝罪しなかったことを問題にしていました。ところが社長の木村さんが「こんな原稿を載せるんだったら社長を辞める」とボツにしてしまったのです。

池上コラムがボツになったーー。その事実は、持田さんが東京本社に乗り込んでくる前日の9月2日、週刊文春にスクープされていました。編集局長室に、事実の説明を求める各部デスクが乗り込むなど、社内は騒然としていました。

ある編集幹部は「あの時ガバナンスの底が抜けた」と表現したほどです。

持田さんは編集幹部4人に対し、吉田調書報道の批判に対抗する「経過の詳報」ではなく、批判を浴びるようになった原因を「検証」する紙面を作り直すよう指示しました。つまり、吉田調書報道は批判をあびるような間違いを犯したということを前提にした記事を作れ、ということです。

4人を帰した持田さんは、政治部の次長(デスク)、特報部の次長と編集委員を呼び、「検証」紙面の作成を指示します。

批判をおさめたかった人たち

そのころ、社会部や科学医療部などからは「所長命令に違反」と書いたことが批判を浴びる原因だったとの声が強まっていました。

9月3日、各部のデスクが集まる会議で、次のような意見が出ました。「批判の核心は『命令に違反した』と表現した点にあり、そこに答えない記述をいくら詳細に展開しても、批判はおさまらない」

第一原発の所員が所長命令に違反していたことは事実です。会議で出た意見は、批判をかわすためにはどうすればいいか、に集中していました。

結局、朝日新聞社内では9月3日以降、「報道機関として何を伝えたいか」よりも、「どうやったら朝日新聞への批判をおさめることができるか」というモードに流れていきます。

「とにかく東電社員の名誉回復を」

吉田調書報道取材チームの中心は特報部記者の木村英昭さんと、デジタル編集委員の宮崎知己さんでした。

その2人には8月28日、翌2015年度の会社案内のゲラが届けられています。そこに吉田調書をスクープした記者として2人が紹介されていたからです。

そのゲラには、木村さんの言葉が紹介されています。「原発報道 批判忘れず知る権利に応える努力を」というタイトルが付けられています。以下、引用します。

  • 「あの日、2011年3月11日、東京・内幸町にある東京電力本店にいました。地震発生直後から駆けつけました。記者では一番乗りでした。ですが、あれよあれよと悪化する原発事故をどう取材すればいいか、戸惑うばかりでした。どれほどの報道ができたのか、今も悔しい思いをしています」
  • 「同時に、僕たち大手メディアの人間は原発報道を巡り、読者から『大本営発表だ』などと厳しい批判も浴びました。〈3.11〉以降、僕はその批判を忘れないようにしています」
  • 「吉田調書は未曾有の原発事故の検証と原因解明に大きく資するでしょう。吉田調書を僕に託してくれた理由があるとすればそんな思いからだったかもしれません。その気持ちに応えなくてはなりません」
  • 「〈3.11〉で読者から刃(やいば)を向けられた批判を戒めにしながら、読者の知る権利に応える奉仕者として、これからも汗をかいていきたいと思っています」

しかし1週間後の9月3日には、木村さんは特報部長の市川さんから「取材班を外れるように」との連絡を受けます。

翌日の4日午後2時すぎ。部長の市川さんは特報部の部屋で木村さんにいいました。

「とにかく(撤退した)650人の名誉回復を図らなければならない」

「名誉毀損の訴訟リスクも想定される」

市川さんは宮崎さんにも電話をし、取材班を外れるよう言い渡しました。

9月2日に「池上コラム」不掲載事件が発覚してから、あっという間の暗転です。

水道橋の「デニーズ」で

9月4日の午後9時30分頃、2人は東京ドームの近く、水道橋にあるファミリーレストランの「デニーズ」で落ち合いました。

そして、宮崎さんが向かいに座った木村さんにこういいました。

「最悪の時を覚悟したほうがいい」

「その時」は、1週間後に迫っていました。

=つづく

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