双葉病院と介護施設ドーヴィル双葉の救助活動は、大地震翌日の3月12日から16日まで5回行われ、431人の患者・入所者を搬出して終わった。
しかし救出された人々にとっては、それで終わりではなかった。避難先の「たらい回し」が待っていたのだ。十分な手当てを受けられない人々はみな衰弱し、16日までに25人、その後3カ月でさらに20人、合わせて45人が亡くなった。
大熊町で精肉店を営む菅野正克(当時67)の父、健蔵(99)は大地震のとき、双葉病院に入院していた。
正克は11日の地震直後、車で5分の双葉病院に駆けつけた。受付の女性に父の名を告げると、「安全な場所へ移動したから大丈夫ですよ」といわれて安心した。父には会わずに自宅へ戻った。
ところが翌12日早朝、大熊町に避難指示が出た。正克はやむなく大熊町をあとにし、50キロ離れた田村市に避難した。
それきり病院と連絡が取れなくなり、父がどこに行ったのかは分からなくなった。
「誰も責任取りたくないんだね」
菅野健蔵さんの遺影=2021年3月5日、中川七海撮影 (C)Tansa
田村市の体育館に避難していた菅野は3月24日、テレビのテロップに目を疑った。
「双葉病院患者 17名死亡」
どういうことだ? 患者はすでに安全な場所に避難したのではなかったのか。
菅野は役場の職員をつかまえて父の名前を伝え、今どこにいるか調べてもらった。
しばらくして職員が戻ってきた。父の健蔵は福島市内の病院に入院しているという。とりあえずは、ほっとした。
4月5日。避難生活中の菅野の携帯に電話がかかってきた。
「お父様がうちの病院に入院されています」
なんと、会津若松市の病院からだった。
「福島市内の病院にいるはずでは? 」
菅野はわけもわからぬまま、翌日、会津若松市へ向かった。
そこには、点滴に繋がれた父が横たわっていた。意識はあるものの、見るからに弱っている。
菅野は、当時の父の様子をこう振り返る。
「誰が来たんだって顔でね。私のことはあんまりわかってなかったんじゃないかな」
それから2カ月後、父は息を引き取った。99歳だった。
菅野は納得できなかった。父は肺炎をこじらせて入院していたものの元気で意識もしっかりしており、菅野に「100歳まで頑張るぞ」といっていたほどだ。
双葉病院から会津若松の病院まで、いったい何があったのか。それを自分で調べ始めた。
明らかになったのは、父は3月14日の「第2陣」の患者だったことだ。最も過酷な目にあった患者たちだった。
14日、父は双葉病院から10時間230キロを移動し、いわき市の高校へ運ばれた。冷たい体育館で一夜を越し、100キロ先の福島市内の病院へ移動した。3月24日に役場の職員が伝えてくれたのは、この時の情報だ。
しかし父は翌25日、80キロ離れた会津若松市内の病院へ再搬送された。衰弱しつづけ、6月12日に死亡した。100歳を迎えられなかった。
菅野さんが営んでいた精肉店。帰還困難区域にあり、取り壊しが決まっている=2021年3月5日、中川七海撮影 (C)Tansa
家畜業を営んでいた父の健蔵は、昔から頑固で厳しかった。
幼い頃、こっそり家の馬に乗って遊ぼうものなら、こっぴどく叱られた。
「乗ってないよ」といっても、「馬が汗かいとるから分かるんじゃ! 」
ちゃぶ台をひっくり返すのも日常茶飯事、菅野のこともすぐ殴る。菅野は父に反発し、家を出た。自衛隊員、その後は遠洋マグロ漁船の船員として働き、実家から距離を置いた。
それでも菅野は、父がきょうだい4人のうち自分を一番可愛がってくれていると感じていた。
30歳を過ぎ、マグロ漁船の乗組員をやめて、大熊町で精肉店をオープンした。父はよく店に顔を出すようになった。
「用事もないくせに、知り合いを連れてよく店に来るから困ったよ」
菅野は懐かしそうに語る。
地震が起きた夜、菅野は福島第一原発で働く義理の息子に、「ベントって何だ? 」と尋ねた。原発について菅野は何も知らなかった。そんな菅野が、父の死を境に一から勉強を始めた。論文を読み、新聞を切り抜いた。
2019年9月、東京地裁は、双葉病院の患者らを死亡させた業務上過失致死傷に問われていた東電の旧経営陣3人に無罪判決を言い渡した。菅野は判決を傍聴した。3人は「無罪で当然だ」という。頭に血が上った。
「誰も責任を取りたくないんだね。時間が経てば、そのうち忘れてくれるだろうと思ってるんじゃないですかね」
現在、菅野は東電を相手どり、損害賠償を求める民事裁判を起こしている。お金がほしいわけではない。父の死の責任を問うためだ。
菅野正克さん。水戸市内の自宅にて=2021年3月5日、中川七海撮影 (C)Tansa
=つづく
(敬称略、肩書きは当時)
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