双葉病院 置き去り事件

「双葉病院のことは調べるな」(14)

2021年03月26日17時00分 中川七海

 

大熊町で精肉店を営んでいた菅野正克(77)は、双葉病院に入院していた父を亡くした。病院から搬出後、避難先の「たらい回し」で200キロに及ぶ移動を強いられ、衰弱した末のことだった。菅野はこの事件を自分で調べ続けている。

45人もの患者と入所者が、なぜ死亡したのか。原発事故の被災地で疑問を持つのは、菅野だけではなかった。

 

「このままでは何もなかったことに」

大熊町で学習塾を経営する木幡ますみ(当時57)は、原発事故後、会津若松市の避難所へ逃れた。

そこへ、一人の女性が泣きながらやってきた。

「先生、ごめんね、ごめんね」

見ると、学習塾のかつての教え子だった。原発事故が起きるまで、准看護師として双葉病院で働いていた。

彼女のことはよく覚えていた。なかなか勉強についていけなかったが、人一倍努力する子だった。准看護師の免許をとり双葉病院に就職が決まった時は、2人で喜んだ。

「どしたの?」

木幡が尋ねると、彼女は泣きながら話した。

「双葉病院の患者さんが、みんな逃げられなかったの」

彼女は3月12日の第1陣で、患者とともに避難した。その際、227人が取り残された。木幡はこのとき初めて、双葉病院の患者が全員避難できなかったことを知った。

「先生、あれは地獄でした」

木幡自身も学習塾を開く前は、看護助手として双葉病院で働いたことがある。他人事とは思えなかった。教え子の訴えをきっかけに、木幡は双葉病院のことを調べることにした。

木幡は避難所にいる人たちに双葉病院の避難について聞いて回った。

しかし、なぜかみな口を閉ざす。双葉病院については調べるなという人もいた。

避難所に任務でいた自衛隊員は、何も答えてくれない。大熊町の職員は「そんなの、わかるはずねえだろ! 」と木幡に怒鳴った。

避難所にいた誰かがいった。

「木幡さん、変なことはもう聞かないで」

木幡ますみさん。大熊町の自宅にて=2021年3月3日、中川七海撮影 (C)Tansa

木幡は、2019年1月に84歳で死去した院長の鈴木市郎をしのぶ。鈴木は木幡が働いていた40年前も院長を務めていた。

「せっせと働いている職員に向かって『みんな、お茶飲め〜』とか言ってくれる人で、院長の器がある人だなって感じてた」

鈴木がある日、ぽつりといった。

「ここにいる患者さんには、行き場所がないんだ」

木幡には、どういう意味か分かっていた。

双葉病院には、病気が改善しても身寄りがないため長期入院している人がいた。院長の鈴木は、そういう人たちでも受け入れた。

「東京の人が、精神的な病気をもつ娘を入院させにきたこともあったな」

木幡はいう。

「双葉病院は、社会の隅に置かれた人たちの、最後の居場所だったのかもしんない」

木幡は今、大熊町の町議を務めていて2期目だ。2015年に初当選、2019年にはトップ当選を果たした。

双葉病院の置き去り事件をはじめ、原発事故の検証と責任は今もあいまいなままだ。一町民では、調査しようと思っても、行政はなかなか相手にしてくれない。

「このままでは何もなかったことにされる」

そう思って立候補を決断したのだった。

「現場百遍」、撮り続ける

木幡のほかにも、双葉病院でおきたことを追いつづける人がいる。

福島県三春町のカメラマン、飛田晋秀(73)は、原発事故以来、大熊町をはじめ原発近隣の被災地を撮り続けている。10年間にわたって100回以上被災地に入り、撮影した写真は数十万枚。本シリーズに寄せた写真は、その中の一部だ。

双葉病院のある大熊町に初めて足を踏み入れたのは、2012年3月18日のことだ。町は無人だが、野生化した牛が威嚇してくる。道路には亀裂が入っている。

原発から5キロの双葉病院まで行くと、病院の玄関前には、ベッドや車椅子が置きっぱなしだった。シーツや毛布もそのままだ。屋外にあるため、雨や雪を吸って濡れている。道路脇には、段ボールに入ったままの新品の水のペットボトルと乾パンが捨てられていた。線量が高くなり、慌てて避難したのだろう。飛田は、一心不乱にシャッターを切った。

今は跡形もなく取り壊されたオフサイトセンターにも入ることができた。ホワイトボードには、「双葉病院93名(残48名)」などと、避難状況を書いたホワイトボードがそのまま残されていた。テーブルの上には、ノートパソコンやマーカーペン、ヨウ素剤が放置されている。急激に上昇する放射線量を前に、双葉病院の避難が完了する前に急いで撤退した様子が生々しく残っていた。

「飛田さん、そんなに何度も撮りに行ったら、被曝しちゃうよ」

知人に注意されることもあったが、飛田は撮りつづける。

家に帰ると、写真一枚一枚に、撮った日付と場所を記録する。

飛田はいう。

「自分が死んだ後、誰かが見た時にわからなくなっちゃダメだからね」

「特に、子どもたちに伝えたいんです。原発事故で福島がどうなったか、事実を伝える。子どもはちゃんとわかりますから」

震災からわずか一年。飛田さんは福島第一原発まで近づいて撮影した=2012年3月18日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀

防衛省が双葉病院事件の97文書保有

双葉病院の救助活動についての連載は、いったんここで区切る。

だが、これで45人が死亡した事件の全容と、責任の所在が明らかになったとはいえない。

例えば5回の救助活動のうち4回を担った自衛隊。Tansaが情報公開請求の交渉を防衛省とする中で、双葉病院事件に関する文書が97もあることがわかった。文末に掲載した通りだ。

しかし、防衛省は「公開まで数年かかる」という。他省庁との情報公開手続きの経験からいって、公開まで数年かかることはない。通常は1カ月だ。

Tansaはこれら防衛省の文書の入手をはじめ、さらに取材を重ねて、新事実を掴み次第報じていく。

=第2部へつづく

(敬称略)

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