3月15日。大地震から4日が経っても、双葉病院には92人の患者と3体の遺体が取り残されていた。この救出を急がなければならない。
東北方面隊と第12旅団衛生隊。
15日午前、自衛隊の2つの部隊が、双葉病院の救助に向かった。
だがこの2つの部隊は、全く連携が取れていなかった。指揮系統はばらばら。互いの連絡方法も知らない。放射線防護の装備も違っていた。
東北方面隊は、早く救助を行うことを重視した。第12旅団衛生隊との作戦会議を途中で放り出し、15日午前7時、単独で双葉病院へ向かった。午前9時に双葉病院に到着し、患者の救助を開始する。しかしぐんぐん上がる放射線量のため、44人を残したところで退却せざるを得なかった。
一方の第12旅団衛生隊。防護マスクなど最高レベルの装備を整え、東北方面隊が出てから2時間後、双葉病院に向け出発した。12日に第一原発1号機が水素爆発した時、タイベックスーツがなくて引き返した。その苦い経験からである。
スピード緩めずすれ違い(15日午前11時)
道路に現れる野生化した牛。大熊町にて=2012年3月18日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀
15日午前11時、東北方面隊は48人の患者を救急車とバスに乗せて双葉病院を出発した。44人の患者と3体の遺体が病院に残った。
双葉病院を出てまもなく、道路が崩れ落ちていて東北方面隊は立ち往生した。そこへ、中央即応集団(CRF)の自衛官がやってきた。CRFは、有事の際に防衛大臣直轄で動く特殊部隊だ。CRFが東北方面隊の隊長にいった。
「ここは線量が高くて危険だ。とにかく離れなさい」
東北方面隊の隊長は、一刻も早く線量の高い場所から抜け出す必要があると感じ、郡山方面へと急いだ。
その途中、第12旅団衛生隊が向こうからやってきた。双葉病院がいまどういう状況にあるか、救助から戻る東北方面隊と、これから向かう第12旅団衛生隊が、直接に情報を交換するチャンスだった。
しかし、2隊は互いに車のスピードを緩めず、そのまますれ違った。
療養棟に残された患者を報告せず
東北方面隊の部隊が出発した後、部隊に随行していた東北方面総監部の防衛課長だけは双葉病院に残った。救助できなかった患者の数を数えるためだ。
残った患者を数え終えると、防衛課長は双葉病院を出発した。東北方面総監部に、放射線が高くて全員を救助できなかったことを伝えた。
しかし残った患者の8割にあたる35人が、「病棟」と「管理棟」のさらに奥にある「療養棟」にいることは報告しなかった。
防衛課長は、第12旅団の衛生隊がすぐに後続で来ることを知らなかった。いずれ救助の部隊が来るとは思っていたが、療養棟が見つけにくい場所にあるとも思っていなかった。
①第12旅団衛生隊と、救助から帰ってくる東北方面隊が出くわした際、双葉病院に残っている患者の人数と患者がいる場所の引き継ぎがなかった
②防衛課長が東北方面隊の救助結果を東北方面総監部に報告する際、療養棟に35人の患者がいることを報告しなかった
この2つが、後に決定的なミスを招くことになる。
7人で全員?(15日午前11時〜午後0時15分)
双葉病院にある3つの病棟 (C)Tansa
第12旅団衛生隊は、東北方面隊が退却して30分後の午前11時30分に双葉病院に着いた。救急車4台と小型の自衛隊車両2台の編成だ。東北方面隊は救急車5台、大型バス2台、マイクロバス1台だったので、それよりは規模が小さい。
病棟に入ると、患者7人がベッドの上で寝かされていた。
隊員たちが「元気か」「大丈夫か」と声をかけていくが、誰も声を発しない。患者7人を布団にくるんだままの状態で、救急車に乗せていった。
しかし、第12旅団衛生隊の隊長はここで疑問を抱く。
「90人程度の患者が残されていると聞いていたのに、7人は少なすぎないか? 」
隊長の念頭には、3月15日朝の作戦会議で説明を受けた時の情報があった。退却した東北方面隊が何人救助できたのかはわからないが、7人しか残っていないというのは少ないと感じたのだ。
部隊の20人で、病棟と管理棟をくまなく探した。
それでも、患者は7人の他はいない。全員を救出できたと隊長は判断した。
ところが実際は、35人が療養棟に残されていた。病棟と管理棟のさらに奥に、渡り廊下を挟んで療養棟があったが、部隊はその療養棟に気がつかなかった。
この時のことを第12旅団衛生隊の隊長は、2012年12月25日のさいたま地検での聴取でこう述べている。
「先に双葉病院の救助に当たっていた東北方面隊の部隊は、救急車だけでなく、大型バスなども部隊に編成されており、私たちに比べてかなり大規模な部隊でしたので、80名くらいの患者さんでも救助することができたのだろうと思いました」
第12旅団衛生隊は救助を始めてから45分、午後0時15分に双葉病院を後にした。
サービスエリアで休憩中に
主な拠点の位置関係 (C)Tansa
第12旅団衛生隊は郡山方面へ向かった。途中、携帯電話がつながらなかったが、山を越えたところで通じるようになった。第12旅団の司令部に報告した。
「双葉病院の患者全員の救助が完了しました。7名の患者さんを救助しました」
ところがその後、東北自動車道安達太良(あだたら)サービスエリアで休憩していた時のことだ。第12旅団衛生隊長のもとに、思いも寄らない情報が入る。途中、第12旅団衛生隊が東北方面隊に追いつき、二本松市の男女共生センターで居合わせた。その際に第12旅団衛生隊の隊員が、東北方面隊の医官からこう尋ねられた。
「双葉病院の療養棟の患者35人はどうなったのか」
隊長は、この時初めて双葉病院に患者を取り残したことに気づいた。
双葉病院に向かう途中で、東北方面隊と第12旅団衛生隊が出くわした時、残った患者の数と居場所について引き継いでいれば防げたミスだった。
12日の国のバス、14日の第12旅団の部隊、そして15日の東北方面隊と第12旅団衛生隊。放射線量が上がり続ける中、計4回の懸命の救助活動が行われた。
にもかかわらず、双葉病院には35人の患者が置き去りにされた。
=つづく
(肩書きは当時)
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