双葉病院 置き去り事件

報告をスルーした自衛隊幹部たち(11)

2021年03月22日18時00分 中川七海

今は閉鎖されている双葉病院=2021年3月2日、渡辺周撮影 (C)Tansa

3月11日に福島第一原発で事故が起きた時、双葉病院と近くの介護施設ドーヴィル双葉には、患者と入所者の計436人がいた。その救助活動は、これまで計4回に及んだ。

①12日、国の避難バスで209人を搬出したが、227人が残った。

②14日、自衛隊第12旅団の輸送支援隊が132人を搬出。92人と3体の遺体が残った。

③15日午前11時、自衛隊東北方面隊が48人を搬出。44人と3体の遺体が残った。

④15日正午すぎ、第12旅団衛生隊が7人を搬出。しかし衛生隊は別棟に患者がいることに気づかなかった。別棟の35人と4体の遺体が残った(1人は行方不明)。

別棟の療養棟に患者が残っていることは、15日に先に双葉病院で救助にあたった東北方面隊は知っていた。入れ替わりでやってきた第12旅団の部隊との間で引き継ぎがなかったためのミスだった。

第12旅団は15日午後、5回目の救助の準備を始めた。

「今度こそ」、大型部隊を編成(15日夕方)

35人の患者の取り残しに第12旅団衛生隊の隊長が気づいたのは、郡山駐屯地へ戻る途中だった。第12旅団衛生隊は、先に双葉病院を出た東北方面隊に道中で追いついた。部下の隊員が、東北方面隊の医官から35人の患者が取り残されていることを知らされていたのである。

隊員の報告を受けた第12旅団衛生隊長の3佐は驚き、すぐに双葉病院に戻ろうかと考えた。

しかし衛生隊には救急車が4台しかなかった。4台では患者16人の搬送が限界だ。燃料も減っている。いったん郡山駐屯地へ戻ることにした。

郡山駐屯地に戻った隊長は、第12旅団の堀口英利旅団長に、35人を双葉病院に取り残したことを報告した。堀口旅団長は、部隊を編成して再度救助に向かうよう命じた。

5度目の双葉病院の救助に向かう部隊は40人。救急車7台、大型バス1台、マイクロバス2台を用意した。

今度こそ、1人残さず全員救出しなければならない。その危機感から、大がかりな部隊編成となった。

第2陣の隊長、再び救援部隊に

いわき光洋高校にある校内図=2021年2月23日、中川七海撮影 (C)Tansa

5度目の救助に向かう部隊には、14日の第2陣の救助で、第12旅団の救援隊長だった3尉も加わった。

3尉は14日に双葉病院とドーヴィル双葉から132人を搬出した後、後続の救援を求めるために、ドーヴィル双葉の事務課長の車を借りて郡山駐屯地に帰還。その後は司令部第3部からの命令で、自隊が救助した患者たちを追っていわき光洋高校に到着した。15日午前10時のことだ。

患者を乗せていたバスを点検すると、内部は汚物にまみれていた。このバスはもう使えないなと感じるほどだった。

高校の体育館に寝かされた患者たちは衰弱しきっていた。床に敷かれた毛布の上に寝かされ、生きているのか死んでいるのかもわからない。すでに亡くなっている人たちもいて、体育館の奥に仕切られたスペースに安置されていた。

その後、ドーヴィル双葉の事務課長に借りた車を川内村に返却しに行き、郡山駐屯地に戻った。

そこで第12旅団司令部から5度目の救助に向かう部隊に加わるよう命じられた。

「双葉病院に30名くらい残っている。療養棟にいた患者だ。部隊を再編成して、再度救助に向かう。その部隊に入れ」

「悔しい、報告したのに」(15日午後9時15分〜16日午前0時)

3尉は悔しかった。実は、14日に単独で郡山駐屯地に戻ったとき、第12旅団の堀口旅団長をはじめ幹部たちに、療養棟に患者たちが残っていることを報告していたからだ。自分が報告した情報を、幹部たちが15日に救助に向かった第12旅団衛生隊に伝えていれば、患者の取り残しは防げたのだ。

3尉は2012年12月10日、さいたま地検での聴取にこう答えている。

「郡山駐屯地に戻った際に、旅団長以下幕僚の前で、別棟(療養棟)に患者がいることについても報告していたので、別棟の患者の救助ができなかったことを聞いて悔しく思いました」

5度目の救援部隊は、15日午後9時15分に郡山駐屯地を出発した。双葉病院に到着したのは16日午前0時すぎ、4度目の救助から12時間以上が経っていた。

双葉病院周辺は、雪で真っ白になっていた。

=つづく

(敬称略、肩書きは当時)

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