慰安婦報道の検証、池上コラムの不掲載、原発吉田調書報道。三つのうちで「池上コラムの不掲載」が最も問題だと、朝日新聞の幹部たちが考えていたことは本欄3回目の「圧倒的に池上コラム」でお伝えした通りです。新旧の編集の最高責任者2人もそう考えていました。
しかし、池上コラムを掲載しなかったことには何のお咎めもありませんでした。木村伊量社長は吉田調書報道で「関係者の厳正な処罰」を記者会見で宣言したのです。
なぜだろう?
私は朝日新聞社内の有志とともに取材を始めた時に、こんなことを考えました。
「池上コラム不掲載への批判をかわすため、原発事故の吉田調書報道を『生贄』として差し出したのではないか」ーー
社内外の取材を始めると、池上コラムを不掲載にした過程で、朝日新聞の幹部たちが木村社長に抗えず失態を重ねたことがわかってきました。
幻の「池上コラム」、見出しは「過ちは潔く謝るべきだ」
そもそも、2014年8月初旬の慰安婦報道の検証について、池上彰さんに原稿をお願いしたのは、朝日新聞でした。当初は検証紙面の中で原稿を書いてほしいとお願いしました。ただ検証紙面で原稿を載せるには、池上さんのスケジュールが合いませんでした。検証紙面の中ではなく、コラム「池上彰の新聞ななめ読み」で慰安婦報道検証について書いてもらうことになりました。
8月27日午後、コラムを担当するオピニオン編集部に池上さんの原稿がメールで届きました。
朝日新聞は過去の慰安婦報道を謝罪するべきだーー
そういう内容でした。朝日新聞はこのときの慰安婦報道検証で、吉田清治氏のウソの証言を元にした記事を取り消しました。しかし、謝罪はしていませんでした。
原稿には「過ちは潔く謝るべきだ」と見出しがつき、ゲラになりました。ゲラは5階の編集局長室に届けられました。そこで封筒に入れられ、局長室のゼネラルマネジャー補佐が幹部たちに届けました。
「こんな原稿載せるなら社長を辞める」
ゲラは木村社長のもとにも届けられました。
通常は、社長が記事をチェックすることはありません。ただし、慰安婦報道の検証に関する記事は経営上の危機管理案件として扱われていました。木村社長、編集担当役員の杉浦信之さん、広報担当役員の喜園尚史さん、社長室長の福地献一さんら「危機管理ライン」の経営陣は、記事をチェックすることになっていました。
「安倍政権が河野談話を見直し、朝日新聞の過去の報道もやり玉にあがるのではないか。朝日の社長が国会に呼ばれることもありうる」
こうした危機感が慰安婦報道の検証を行う動機だったからです。
編集担当役員の杉浦さんらが、池上さんのコラムについて木村社長に報告に行きました。池上さんの原稿を読んだ木村社長は、激怒していいました。
「こんな原稿を載せるんだったら社長を辞める」
木村社長が怒ったのを受け、杉浦さんの部下にあたるゼネラルエディターの渡辺勉さん、ゼネラルマネジャーの市川速水さんら編集部門の責任者で話し合いました。
その結果、見出しを「過ちは潔く謝るべきだ」から「訂正遅きに失したのでは」に変更し、杉浦さんが木村社長と再び交渉することになりました。しかし、木村社長は譲りませんでした。
「あの時、ガバナンスの底が抜けた」
木村社長の方針を受け、池上さんに原稿の修正をお願いすることになりました。
池上さんの携帯電話にオピニオン編集部の部長代理が「至急会いたい」と留守番電話を入れました。
池上さんと連絡がとれ、8月28日の夕方にテレビ番組収録中の池上さんに会いに行くことになりました。会いに行ったのは、ゼネラルエディターの渡辺勉さん、オピニオン編集部長の市村友一さんと部長代理です。収録の合間なので時間は15分。朝日側は、「このままでは原稿を掲載できない。お詫びがないという部分をもう少し抑えてくれないか」「外部から攻撃を受けている状況だ。危機管理の観点からこのままでは載せられない」と伝えました。池上さんの返答はこうです。
「細かい表現に関しては検討の余地があるかもしれないが、骨格は変えられない。掲載するかどうかは朝日新聞の編集権の問題だから私はとやかくいうつもりはない。しかし『何でも自由に書いてください』といわれて書き始めた経緯があるから信頼が崩れたと考える。連載は打ち切らせてください」
ゼネラルエディターの渡辺勉さんは、会社に戻った後、杉浦さんに再度「このまま池上さんのコラムを載せるべきだ」と迫りました。でも杉浦さんは木村社長に「こんな原稿を載せるなら社長を辞める」とまでいわれています。首を縦に振ることはありませんでした。
池上さんのコラムはすでに翌朝の29日付朝刊用のゲラになっています。編集現場では「社長命令だ、外せ」と急きょ、紙面から外す作業が行われました。
「証拠隠滅」をしようとしたのでしょうか、池上さんのコラムが載っているゲラはシュレッダーにかけることも指示されました。
しかし、池上さんのコラムを掲載しなかったことを週刊新潮と週刊文春が察知します。9月2日には週刊文春がネットで速報しました。それ以降、朝日新聞社内でも批判が起こり、記者がツイッターでこの問題を発信したり、編集局長室にデスクらが集団で乗り込んだりと騒然としていきます。当時の編集局幹部はこういいました。
「あの時、ガバナンスの底が抜けた」
シラを切った社長
以上が池上コラムを掲載しなかった経緯です。
しかし、週刊文春の速報から9日後の9月11日、朝日新聞は記者会見でウソをつきます。会見は原発吉田調書報道の取り消しについてですが、池上コラム不掲載についても質問が相次ぎました。
それに対して、杉浦さんは「池上コラムの不掲載は自分の判断だ」、木村社長は「感想を述べただけだ」と答えました。
例えば、週刊文春の記者とのやり取りは以下のようなものでしたーー。
「こちらでは木村社長の判断があったというようなことを聞いている」
木村社長は答えます。
「私が指示した事実は一切ありません。その後の(池上さんとの)交渉の経過も含めて私は全く存じておりません」
「(池上さんの原稿の内容が)厳しいという感想はありましたので、感想をいった覚えはあります。それ以上のことはありません」
文春の記者はさらに聞きます。
「それを杉浦さんは忖度したのか」
その質問が出た瞬間、杉浦さんは自分が答えようと木村伊量さんからマイクをもらおうとしますが、木村社長は気付かずに続けます。
「忖度したということはなかったと私は認識しています」
そしてマイクを引き取った杉浦さんがいいます。
「私自身の判断でございます」
第三者委「不掲載は実質的に社長の判断」
この記者会見でウソがあったことは、まず慰安婦報道の検証をする朝日新聞社の第三者委員会が報告します。委員会のメンバーは以下の通りです。
委員長:元名古屋高裁長官の中込秀樹さん、委員:外交評論家の岡本行夫さん、国際大学学長の北岡伸一さん、ジャーナリストの田原総一朗さん、筑波大学名誉教授の波多野澄雄さん、東大教授の林香里さん、ノンフィクション作家の保阪正康さん
第三者委員会は、池上コラムを掲載しなかった経緯について次のように結論づけます。
「朝日新聞は、池上氏のコラムを掲載しないこととした経緯について、社長の木村は池上氏のコラムの原稿について感想は述べたがあくまで感想を述べただけで、掲載見送りの判断をしたのは杉浦であるという趣旨の説明をした」
「しかし、8月27日に池上氏から原稿を受け取った際、編集担当を含む編集部門は、これをそのまま掲載する予定であったところ、木村が掲載に難色を示し、これに対して編集部門が抗しきれずに掲載を見送ることとなったもので、掲載拒否は実質的には木村の判断によるものと認められる」
3年後の告白
しかも木村伊量さん自身が、社長を退任後に文藝春秋2018年2月号で、真実を告白します。
この号の特集は「私は見た!平成29大事件の目撃者」。木村伊量さんの記事は「朝日前社長初告白『W吉田誤報』の内幕」というタイトルです。「W吉田誤報」とは、慰安婦報道での「吉田清治証言」と、福島第一原発の吉田昌郎所長の「吉田調書報道」の双方を指しています。
木村伊量さんは「告白」をする理由についてこう書きます。
「当時の経緯やトップとしての判断を、できるだけ正確に書き残すことは、やや大げさなもの言いをするなら、歴史に対する責任ではないか、という思いが去来してもおりました。社を退いて三年。それなりの時間が経過したこともあり、今回、編集部の求めに応じたしだいです」
池上コラムのゲラを読んだ時のことは、次のように振り返りました。
「一読して『役員全員で検証記事のトーンを決めたのに、『おわびがない』という一点をもって検証記事の意味はなかったと言われ、読者の不信を買うようなら、ぼくは責任をとって社長を辞めることになるよ』と、かなり厳しい調子でコメントしたと記憶しています」
木村伊量さんは、「社長を辞めることになる」「かなり厳しい調子でコメントした」といったことを自ら認めているのです。記者会見でいったのは「感想を述べただけ」です。
結局、当時の朝日新聞に最も強い逆風が吹いたのは「池上コラムの不掲載」であり、不掲載を判断したのは、社長だった木村伊量さんなのです。
そのことを隠し、批判の矛先を変えるために「生贄」として差し出されたのが、原発の吉田調書報道だったと私は考えます。吉田調書報道が取り消されるまでの過程を詳細に検討すれば、よりはっきりします。
次回以降の本欄でお伝えします。
=つづく
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