双葉病院前の道路に置きっぱなしにされた水と乾パン=2012年3月18日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀
3月15日、大地震が起きてから5日目を迎えた。
福島第一原発から4.5キロの双葉病院には、92人の患者とすでに息を引き取った3体の遺体がいまだに取り残されていた。原発は1号機、3号機、4号機が水素爆発。メルトダウンが進んだ2号機は、核燃料の格納容器が損傷し、大量の放射性物質がまき散らされていた。
この時まで、双葉病院の患者避難は2度行われた。
1回目は12日午後2時。国が手配したバスで、自力で歩ける患者209人が避難した。
2回目は14日午前10時30分。自衛隊第12旅団の部隊が、バスで、寝たきりの患者を含む132人を避難させた。
しかしいずれもそれきりで、後続の救助は来ていない。
自衛隊は、双葉病院に患者が残っていることは知っていた。その救助のため3月15日早朝、自衛隊の2つの部隊が郡山駐屯地で作戦会議を開いた。第12旅団の衛生隊と、東北方面隊の部隊だ。
ところが、両部隊の間で意思疎通が取れていなかった。それぞれが互いの役割や連絡先すら把握していない。
作戦会議が始まって15分後の15日午前7時、東北方面隊の隊長に、東北方面総監部から「直ちに双葉病院に向かえ。第12旅団とは別に行動せよ」という命令が出た。隊長は、会議で同席している第12旅団のメンバーには何も告げず、自分の部隊だけで双葉病院へ向かってしまう。
飛び出した東北方面隊、備えた第12旅団(15日午前7時~9時)
置いてけぼりにされた第12旅団はどうしたのか。
第12旅団は、放射線防護の念入りな備えをしていた。
旅団長名で「放射線防護の心得」が出された。隊長には部隊用の線量計が渡された。毒ガス攻撃にも耐えるような防護服や防護マスクを、隊員全員が着用した。
理由があった。
3日前の12日、第12旅団の部隊は苦い経験をしていた。双葉病院に郡山駐屯地から救助に向かったものの、途中で原発1号機が水素爆発した。部隊は放射線を防護するタイベックスーツの備えがなかったために、引き返したのだ。タイベックスーツが揃って再び出動したのは、丸一日以上が経ってからだった。
原発2号機がメルトダウンした14日夜には、第12旅団長が一時「MOPP4」を発令した。MOPP4とは、自衛隊の防護装備のうち最高レベルの装備を指す。
東北方面隊の隊長は、第12旅団の放射線防護の意識について、2012年12月27日の検察官からの聴取で、感想を述べている。
「第12旅団は、3月13日ごろから、福島第一原発周辺での活動を始めていたと思いますので、やはり、宮城県を中心に救助活動を行なっていた我々よりも、原発に対する危機意識のようなものが強かったのではないかと思います」
第12旅団の衛生隊がフル装備で郡山駐屯地を出発したのは、東北方面隊が出てから2時間後の15日午前9時だった。
「放射性物質の塊が近づいてくる」(15日午前9時〜11時)
15日午前7時に双葉病院へ向けて出発した東北方面隊の構成は、救急車5台、大型バス2台、マイクロバス1台だった。
沿岸部に近づくにつれ道が悪くなっていった。地面は波打ち、橋が崩れている。スピードを上げることができない。何度も迂回し、2時間後の午前9時、双葉病院に到着した。
双葉病院では、寝たきりの患者が多く、声をかけても反応がなかった。見ただけでは生きているのか死んでいるのかすらわからない。ベッドにつけられたネームプレートを外して、患者をくるむ毛布の間に挟んだ。後で患者の名前をわかるようにするためだ。
救急車はすぐいっぱいになり、バスにも寝たきりの患者を乗せた。椅子をリクライニングにしたり、いくつかのシートを使って寝かせたりした。
救助を始めて30分ほど経った頃から、部隊に随行していた防衛課長が持つ線量計の音が激しくなってきた。
この線量計は、累積の被曝量が1マイクロシーベルト上がるごとに音が鳴る仕組みだ。だんだん音の鳴る間隔が短くなり、ついに鳴りっぱなしになった。
防衛課長は思った。
「まるで、放射性物質の塊が近づいてくるような感覚になってきた」
そこから1時間半が経った頃、防衛課長が線量計に目をやると、約3ミリシーベルト(3000マイクロシーベルト)になっていた。
東北方面総監部には、女性は5ミリシーベルトが許容限界だと指示されている。男性は100ミリシーベルトだが、救助にあたっている看護官3人は女性だ。このままではすぐに限界に達してしまう。
その時、医師免許をもった若い医官が叫んだ。
「もうだめだ ! 逃げろ! 」
防衛課長は隊長にいった。
「このままでは女性の線量限界を超えてしまいます。あと30分が限界です」
隊長は中断を了承した。
この時のことを、隊長は2012年12月27日に東京地検で行われた聴取でこう語った。
「私は、すべての患者を救助できないまま中断してしまうのは、非常に忍びなかったのですが、隊員の安全も考えなければいけません。活動限界に近づいている以上、救助を中断せざるを得ないと判断しました」
午前11時、患者48人を乗せた東北方面隊の全車両が出発した。44人の患者が、高い放射線量の中でまた取り残された。
この頃、東北方面隊より2時間遅れで郡山駐屯地を出た第12旅団の衛生隊が、双葉病院に到着しようとしていた。
第12旅団の衛生隊は、放射線防護が万全だ。双葉病院の患者を全員救出することができるのか。
=つづく
(敬称略、肩書きは当時)
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