大熊町から郡山へ続く道=2014年3月27日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀
3月14日から15日にかけ、福島第一原発2号機の核燃料が入った格納容器が破損する危機を迎えていた。
双葉病院院長の鈴木市郎は、双葉署副署長の新田晃正らとともに、原発から20キロの割山(わりやま)トンネルに一時避難した。しかし対策本部の指示で川内村役場に移り、そこで郡山駐屯地を出発した自衛隊を待った。
病院には92人の患者と3体の遺体が残されている。自衛隊と合流し、双葉病院の患者を救助するため戻るつもりだった。
しかし、自衛隊は大混乱に陥っていた。
「選手交代」(14日)
自衛隊第12旅団の救援部隊は14日午前、双葉病院とドーヴィル双葉の132人を避難させた。だが事前に把握していたより寝たきりの患者が多かった。バスが満杯になって、92人の患者と3体の遺体が双葉病院に取り残された。
部隊長の3尉は午後4時に郡山駐屯地に戻り、第12旅団長以下、幕僚の前で報告する。
「元々聞いていた情報とは違い、寝たきりの患者ばかりでした。病院には別棟もあり、そこにいる患者も搬送未了です」
司令部の幹部がいった。
「今後の救助は、東北や関東などの部隊から、救急車をかき集めて行うから大丈夫だ」
3尉は幹部からいわきへ行く準備をするよう命じられた。3尉の部隊が午前中に患者を運んだ場所だ。
3尉の部隊と入れ替わるようにして、新たな部隊が2つ動きだした。
一つは同じ第12旅団の衛生隊。救急車4台で編成。
もう一つは、仙台の東北方面総監部の部隊。救急車5台、大型バス2台、マイクロバス1台で編成され、医官1人と看護官3人も加わった。
あっちは何するの?(15日明け方)
駐屯地の位置関係 (C)Tansa
15日の明け方、東北方面隊の部隊が仙台から郡山駐屯地に到着する。待機していた第12旅団の衛生隊と合流した。
だが、この2つの部隊は全く連携が取れていなかった。
第12旅団の衛生隊を率いた隊長は、2012年12月25日の検察官からの聴取にこう語っている。
「東北方面隊の部隊も双葉病院の救助に向かうという情報を得ましたが、東北方面隊とどのように協力し、役割分担して救助を行うかという指示はなく、東北方面隊の隊員の連絡先も知らされていませんでした」
一方の東北方面隊の部隊に加わった東北方面総監部の防衛課長は、2013年1月25日の検察官からの聴取でこう供述している。防衛課長は第12旅団との調整役であり、郡山駐屯地に到着後に第12旅団司令部第3部長らと、東北方面隊との役割分担を話し合った。
「この話し合いの結果、双葉病院については、東北方面隊の部隊が救助活動を担当することになり、第12旅団の部隊が他の施設の救助活動を担当することになりました」
だが、原発近辺で取り残されているのは双葉病院しかない。「他の施設」とはどこか。この点についても、防衛課長は証言している。
「ただ、第12旅団の部隊がどの施設の救助を担当することになったかは、はっきりとは覚えていません」
両者の供述を要約すると、こういうことになる。
「第12旅団は、東北方面隊とどういう役割分担をするか知らなかった」
「東北方面隊は、第12旅団が双葉病院の救助を担当するとは思っていなかった」
作戦会議の途中で席を立つ(15日6時45分〜午前9時)
15日午前6時45分、お互いの役割を知らないまま、郡山駐屯地の指揮所内で両部隊が参加し作戦会議が開かれた。具体的な調整ができる機会だった。
作戦会議が始まってまもなく、東北方面隊を率いる1佐の携帯が鳴った。東北方面総監部からだった。
「直ちに救助に向かえ。第12旅団とは別に行動せよ」
東北方面隊の1佐は会議の途中だったが席を立ち、部隊は双葉病院へ向かった。
第12旅団衛生隊の隊長はこの時のことも、2012年12月25日の検察官からの聴取で振り返っている。
「作戦会議の途中で東北方面隊の部隊の隊長らしき人が席を立ち、部隊を率いて出発していきました」
この時、衛生隊長は東北方面隊がどこに向かって出発したのか、全く知らなかった。
東北方面隊長が席を立ってから2時間後、第12旅団衛生隊も双葉病院に向けて郡山駐屯地を出発した。
=つづく
(敬称略、肩書きは当時)
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