震災後3年の大熊郵便局=2014年3月24日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀
3月14日午前11時20分、自衛隊第12旅団救援隊長の三尉はドーヴィル双葉の事務課長の車で、第一原発のオフサイトセンターに電話を借りに行った。しかし、被曝を警戒してドアも窓も閉め切ったオフサイトセンターに入れてもらえない。しかたなく、第12旅団の司令部がある郡山の駐屯地まで80キロを走った。
隊長の部隊はこの日の午前中に132人を避難させたが、病院にはまだ92人の患者と3人の遺体が残されていた。早急に救援を要請しなければならない。
隊長が直面した事態を、双葉病院長の鈴木市郎は知らない。病院には院長の鈴木とドーヴィルの施設長ら病院関係者が6人、双葉署の渡辺正巳署長ら警察官が11人残っていた。
「おばあさんが車椅子でグルグル回り」(14日午後8時〜午後10時)
隊長は14日夜になっても戻ってこなかった。自衛隊の応援部隊も一向にやってこない。
鈴木をはじめ病院関係者は不眠不休で患者のケアをした。助けを求めて、近隣の町に何度も出かけた。地震発生から丸3日が過ぎ、疲れはピークだった。
鈴木は6人いた病院関係者のうち、2人を帰宅させ、2人はすでに避難が完了したドーヴィル双葉で休ませた。鈴木とベテランの男性医師は、引き続き患者の面倒をみた。
午後8時、双葉署副署長の新田晃正が病院へやってきた。署長の渡辺と交代するためだ。署長は地区全体の指揮を執れという県警の方針で、双葉病院だけに関わっているわけにはいかなかった。
新田は、警察官のうち3人を署長とともに帰し、若くて体力のある7人を病院に残した。
新田は鈴木のもとへ、すぐに挨拶に行った。
「これから私が双葉病院で指揮を執らせてもらいます」
鈴木は新田に苛立ちをぶつける。
「事務課長の車で自衛隊の隊長が双葉病院を出て行ったきり、帰ってこない」
新田には何のことかよく分からない。とりあえずなだめた。
「院長、今は車のことなど言っている場合じゃないでしょう」
副署長の新田は、病棟にいる患者の様子を見てまわった。この時のことを、2012年11月30日の福島地検での聴取に対して次のように証言している。
「素人目には生きているのか死んでいるのかも分からないような患者さんばかりが残されており、院長が懐中電灯で照らしながら患者の点滴の交換など処置を続けていました」
「動くことができる患者さんも痴呆症など、精神的な病を患っている方が多かったようで、痴呆症と思われるおばあさんが車椅子で院内をグルグル回りながら叫び声を上げたりしていました」
「患者がいるから残る」(14日午後10時〜15日午前0時)
震度6強に見舞われた大熊町内の道路=2012年3月18日、飛田晋秀撮影 (C)飛田晋秀
副署長の新田が双葉病院に来てから2時間。午後10時過ぎに、新田の無線機に連絡が入る。双葉病院から南西へ25キロ、川内村にあった双葉署の対策本部からだ。双葉署は富岡町にあるが、原発が水素爆発したため川内村に避難していた。
「第一原発の2号機が炉心溶融の状態になっている模様。危険だから原発周辺から退避せよ。消防無線ではすでに離脱の指示が出ている」
メルトダウンだ。核燃料が溶け出しているのだ。これまでの水素爆発とは比較にならない被害が出るかもしれない。警察は全員避難することにした。
新田は、急いで院長の鈴木に声をかけた。
「院長、一旦退避しましょう」
だが、鈴木は拒む。
「患者がいるから私は残ります」
新田は説得する。
「緊急避難です。状況を見て、また戻りましょう。一時的に患者の元を離れて、何か問題は生じますか」
鈴木は「一応は処置してあるので大丈夫です」と答えた。
新田がたたみかける。
「もし先生に何かあったら、患者さんのことは誰が見るんですか」
鈴木は受け入れた。
主な位置関係(A:双葉病院、B:割山トンネル) (C)Tansa
双葉病院にいた鈴木と医師は、副署長の新田の指示で、警察の車で南西へ20キロほどの割山(わりやま)トンネルへ避難することにした。そこなら、川内村にある警察の対策本部にも双葉病院にも近く、またすぐ戻ってこられる。その上、トンネルがあるので、放射線をある程度は防げると考えた。
まもなく割山トンネルに着くという頃だった。今度は福島県警の警備本部から無線で指示がきた。
「原発が危険かは確認できない。双葉病院に戻るように」
一行は再び双葉病院へ戻ることにした。
ところがその途中、大熊町内にいた警察官たちから気になる話を聞く。
「100台ぐらいの車両が猛スピードで288号線を郡山方面に走っていった。一般車もいた」
288号線は福島第一原発がある大熊町と、西に70キロの郡山市を結ぶ国道だ。新田はいぶかった。
「猛スピードで郡山方面は走っている車は、もしかして原発の関係者か?」
やがて大熊町役場にさしかかった。様子がおかしいのに気がついた。役場は原発から5キロの距離にある。
「なんだこれ」
さっき通過した時にはあった自衛隊車両が、1台も残っていない。ドラム缶が散乱している。しかもドラム缶には、自衛隊の車両に使うガソリンが入ったままだ。
「ただごとではない。第一原発は、自衛隊がガソリンを残したまま退避するような危険な状態になっているのではないか」
新田は、再び川内村の割山トンネルへ引き返すことにした。
県警の警備本部の指示とは異なる判断だ。双葉署長の渡辺に無線で、自衛隊が原発付近から急いで退避していると述べ、自分たちはやはりトンネルに向かうと伝えた。渡辺は「そのようにされたい」と許可した。
院長の鈴木は副署長に、ドーヴィル双葉で仮眠を取っている施設長と事務課長も連れて行きたいと申し出た。ドーヴィル双葉に立ち寄り、2人を叩き起こした。
割山トンネルに到着したのは、15日午前0時ごろだ。
双葉病院からは、病院関係者も警察官も自衛隊員もいなくなった。残ったのは患者92人と、すでに死亡した3体の遺体だけとなった。
=つづく
(敬称略、肩書きは当時)
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