旧大熊町役場にある放射線の測量計=2021年3月2日、渡辺周撮影 (C)Tansa
地震の翌日の3月12日、福島県大熊町の双葉病院と介護施設ドーヴィル双葉に、患者と入所者計227人が避難から取り残された。
14日午前になって、自衛隊第12旅団の救援部隊がバス9台で救助に向かった。しかし132人をバスに搬入したところで満席になってしまう。患者・入所者のほとんどが寝たきりで、一人一席で座らせることができなかったからだ。
自衛隊のバスがまた戻ってくることを見込んで、自衛隊の3尉である救援隊の隊長は午前10時30分に最後のバスを発車させた。双葉病院の患者92人と、すでに亡くなった3人の遺体が病院に取り残された。
患者とともに残ったのは、院長の鈴木市郎、ドーヴィル双葉の施設長と事務課長、応援のために戻ってきた病院関係者3人、双葉署の警察官ら十数名、それと救援部隊の隊長だ。
その直後の11時1分、福島第一原発が2度目の水素爆発を起こした。
ガラス越しに首を振られ(14日午前11時20分〜午後4時)
双葉病院は固定電話が停電で使えない上、携帯も無線も通じない。患者のバス搬入作業中、隊長はオフサイトセンターへ行き、衛星電話を借りて第12旅団司令部に応援を要請している。しかし11時20分になっても誰も来ない。
隊長は、もう一度オフサイトセンターへ行くことにした。しかし、今は車がない。
院長の鈴木に声をかけた。
「助けを呼んできます。車を貸してもらえませんか」
ドーヴィル双葉の事務課長が車を貸してくれた。隊長は病院を出た。
車で5分、オフサイトセンターが見えてきたが、何やら様子がおかしい。
建物の出入り口や窓が全て閉め切られ、隙間はガムテープで目張りされている。
隊長はセンターの中にいる人に、ドア越しに訴えた。
「お願いです。衛星電話を使わせてください」
しかし、ガラス越しの職員は拒否する。
「車の中に入って待て。被ばくするぞ」
いくら頼んでも入れてもらえない。
しばらくすると、背後から迷彩服の人影が近づいてきた。2人の自衛隊員が、怪我人を抱えている。怪我をしているのも隊員だ。自力で歩けない様子だった。
自衛隊員が、扉を開けるよう叫んだ。車の中にいた隊長にもわかるぐらいの大声だ。それでも、建物にいる人物は首を横に振っている。
「歩けない人でも入れてくれないなら、もうオフサイトセンターには入れないだろう」
隊長はオフサイトセンターに入ることをあきらめた。ノートを破り、メモを記す。
「双葉病院内には患者90名、職員6名が取り残されている。第12旅団に伝えて下さい」
建物の中から見えるよう、出入り口のガラスに貼りつけ車に戻った。
隊長は院長の鈴木に双葉病院に戻ると約束している。しかし、オフサイトセンターには入れてもらえず、司令部に直接連絡ができない。双葉病院に自衛隊の救助を向かわすためには、郡山駐屯地に戻って司令部に掛け合う方が早い。そう判断した。
隊長は郡山駐屯地に向かった。
午後4時に到着。隊長は旅団長以下、司令部の幕僚の前で報告する。
「はじめに聞いていた患者数が違う上、寝たきりの患者ばかりでした」
「病院には別棟もあり、そこにいる患者の搬送は未了です」
司令部の幹部がいった。
「今後の救助は、東北や関東などの部隊から救急車をかき集めて行うから大丈夫だ」
だがこの言葉が全く当てにならなかったことを、隊長は後に思い知ることになる。
「いまいま息を引き取った顔ではない」(14日午後8時〜15日未明)
双葉病院を出たバスは230キロの距離を走り、9時間を超える移動の末、避難先へ着いた=第2陣バスのルートの概要 (C)Tansa
14日の午前中に双葉病院を出たバスはその頃、避難先のいわき光洋高校に向かっていた。
到着したのは午後8時。バスが双葉病院を出発してから、10時間近く経っていた。なぜこれほど時間がかかったのか。
バスは双葉病院を出た後、まず南相馬市の相双保健所へ向かった。双葉病院からは北へ40キロの道のりだ。避難所があるいわき市は双葉病院の南45キロに位置し、南相馬は真逆だ。避難所へ行く前に、放射線の汚染がないかチェックを受ける決まりがあった。スクリーニングと呼ばれる。
相双保健所には、正午に着いた。寝たきりの患者が多いため、スクリーニングには時間がかかった。患者はどんどん衰弱していく。結局、全員のスクリーニングが終わらないまま、保健所長はいわきの避難所へ向かうよう言った。
午後3時、バスはいわきへ向けて出発した。病院を出てからすでに4時間半が経っている。いわき光洋高校は保健所からまっすぐ南へ85キロにあるが、原発から20キロ圏内を通ることができない上、地震や津波で道路が寸断されていた。迂回し、さらに200キロほど走った。
午後8時にようやく、いわき光洋高校にバスが着いた。
バスを迎えた田代公啓校長は驚いた。車内には異臭が漂っている。床に転げ落ちている人や、オムツが外れて糞尿が垂れ流しになっている光景が目に入った。
田代校長は、高校に医療体制がないことを事前に福島県の担当者に伝えていた。患者の容態は聞かされていない。精神科にかかっているだけで体は元気な人が来るものと思っていたぐらいだ。
医療設備がなければ対応は厳しい。田代校長は受け入れを断った。
バスは、光洋高校から車で10分のいわき開成病院へ向かった。双葉病院やドーヴィル双葉と同じ博文会系列の精神科病院だ。
だが開成病院は、12日のバスで避難してきた双葉病院とドーヴィル双葉の200人以上をすでに受け入れている。院内は溢れかえっていた。ベッドに2人ずつ寝かせても足りず、廊下にも患者が寝ころんでいる。受け入れは厳しかった。
いわき光洋高校の体育館1階に運ばれた=2021年2月23日、中川七海撮影 (C)Tansa
バスは再び光洋高校へ戻る。開成病院から医療従事者を光洋高校に派遣することが、受け入れの条件だった。開成病院にはちょうど、12日に患者と共に避難してきた医師と看護師たちがいた。その中から5人が光洋高校に行くことになった。
5人は光洋高校に着き、まだバスから降りていない患者の様子を確認することから始めた。この時点で、すでにバスの中で3人が死亡していた。
光洋高校へ行った双葉病院の看護副部長は、この時のことを2018年9月18日にあった刑事裁判の公判で、証人として次のように証言している。
「最初に衝撃だったのが、バスのドアを開けた瞬間の異臭、すごい臭いですね」
「あとは亡くなった患者さんの顔ですね。座ったまま亡くなっているんですけれども、明らかに亡くなっている顔なんです。もう、蒼白ですし、いまいま息を引き取ったという顔ではない、死体です。そう感じました」
双葉病院を出てから10時間が経過しているのに、患者たちは飲まず食わずだ。みな顔色が悪く、手足は冷たい。低体温症や脱水症を起こしていた。看護師たちは高校の会議室でおにぎりとお茶を摂らせた。
体育館へ患者たちを運び終えると、さらに3人が亡くなっていた。
死亡確認をした医師は、2018年9月19日に行われた裁判で尋ねられた。
――証人が双葉病院を出発したとき(12日午後2時)には、すぐに亡くなるような、命の危険がすぐにあるような方はいらっしゃらないと、こういうお話でしたよね。
医師は短く答えた。
「はい」
=つづく
(敬称略、肩書きは当時)
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