2011年3月11日の東京電力福島第一原発の事故で、福島県大熊町にある「双葉病院」の入院患者と、近くの介護施設「ドーヴィル双葉」の入所者が少なくとも計45人亡くなった。
両施設は原発から4.5キロだ。事故翌日の12日、首相官邸は原発から10キロ圏内に避難指示を出している。本来なら、この段階で全員が救出されるはずだった。ところが、全ての患者と入所者の避難が終わったのは、5日後の3月16日だった。
病院や避難のバスの中で絶命した人もいれば、衰弱して避難後間もなく死亡した人もいた。
この事件で、東電の旧経営陣3人は業務上過失致死傷罪に問われている。
そもそも東電が原発事故さえ起こさなければ、患者たちが置き去りにされるようなことはなかったからだ。一審では東京地裁が無罪判決を出したが、裁判はまだ続いている。
しかし原発事故の状況下でも、45人は救えたのではないか。何か手ぬかりがあったはずだ。
そのことが十分に検証されていない。責任があいまいだ。
遺族は、原発事故から10年経つ今も事件を調べ続けている。
Tansaは、検察の調書を調べた。双葉病院とドーヴィル双葉で救助にあたった関係者から検察が聴取した記録だ。この調書は、東電への株主代表訴訟を審理している東京地裁商事部が、同刑事部から取り寄せた証拠である。
そこでは自衛官や警察官、病院関係者が、当時の状況をなまなましく供述していた。浮かび上がってきたのは、自衛隊幹部の致命的なミスなど数々の新事実だった。取材や政府事故調査委員会の調書、行政への情報公開請求の結果と照らし合わせて、事件で何があったかを連載する。
「安全なところへ移動した」(11日午後2時46分~午後3時15分)
双葉病院とドーヴィル双葉は、福島第一原発の南西約4.5キロにあった。役場や商店街があった大熊町の中心街からは、1キロもない。(C)Tansa
双葉病院は医療法人博文会の経営で、精神科と内科が診療科目だ。認知症の患者や合併症の疾患を抱えた高齢者が多く入院しており、常に点滴が必要な患者が20~30人いた。精神科には長期入院の患者もおり、原発事故当時は338人が入院していた。
大熊町で学習塾を開いていた木幡ますみ(66)は、33歳の時に双葉病院に看護助手として働いたことがある。精神科の入院患者の男性に「出身は東京だけど、家族と縁が切れて誰も迎えに来てくれない」と打ち明けられたのを思いだす。「帰るあてのない人たちがいて、寂しい雰囲気が双葉病院にはあったんだあ」。
ドーヴィル双葉も博文会の経営だ。双葉病院から500メートルほどのところにあった。要介護1~5までの高齢者が入所していて、認知症や寝たきりの人も多くいた。原発事故当時は98人が入所していた。
3月11日午後2時46分、大熊町は震度6強の地震に見舞われた。町の商店街で精肉店を営んでいた菅野正克(76)は、揺れが収まってから、車で双葉病院に駆けつけた。当時99歳だった父の健蔵が半年前から肺炎で入院していたからだ。
病院には5分で着いた。玄関を入ってすぐにある受付の女性に父の様子を聞いた。受付の女性は答えた。
「安全なところへ移動したので大丈夫ですよ」
受付の女性は、入院している健蔵の状態を確認して答えたわけではない。地震直後の混乱の中で、家族に心配させまいと咄嗟に口にしただけなのだろう。しかし、菅野は女性の言葉に安心し、ほっとして自宅に引き揚げた。午後3時15分ごろのことだ。
それから1カ月間、父の消息が分からなくなるとは思わなかった。
ろうそくの明かりで点滴(11日午後3時15分~12日午前5時44分)
双葉病院の前に散乱するベッド=2012年3月18日、飛田晋秀撮影
受付の女性の言葉とは裏腹に、双葉病院とドーヴィル双葉はそこから危機的な状態に追い込まれていった。
地震が起きた時、患者と職員の悲鳴が上がった。恐怖で声も出ない患者は看護師の手を握って離さない。電気、水道、ガス、電話はすぐに止まった。電気は非常用電源を使ったが、数時間で切れた。
配管が壊れて床は水浸し。長靴をはかなければ歩けない場所ができるほどだ。看護師たちは、水浸しで患者がいられなくなった部屋からの移動を誘導した。
最大の問題は停電だった。一定量の点滴を続けるための輸液ポンプと、痰の吸引器が使えなくなったからだ。寝たきりの患者にとってはいずれも必須だ。
院長の鈴木市郎はこの非常事態に、自ら患者たちのケアにあたった。鈴木は病院とドーヴィル双葉を経営する医療法人博文会の理事長でもある。懐中電灯やろうそくの明かりで患者を確認しながら点滴の調整を行った。痰は注射器を使って吸引した。
原発事故から10年が経つ大熊町の旧市街地=2021年3月2日、渡辺周撮影 (C)Tansa
双葉病院とドーヴィル双葉で院長の鈴木らが患者のケアに追われていた頃、大熊町では「原発で何か起きたのでは」と不安を覚える町民たちがいた。
木幡ますみは、第一原発の方から作業員の制服を着た人たちが町役場近くのコンビニに続々と入って行くのを目の当たりにした。停電でレジが使えないため電卓で店員が計算するのを待てず、商品をどんどん持ち去る。塾の教え子だった作業員がいたので尋ねると、その作業員は叫んだ。
「先生、逃げろ! ここはもう駄目だ」
精肉店の菅野は、父の様子を見に行った双葉病院から自宅に戻った。その夜、第一原発で働く義理の息子がやってきて言った。
「原発が大変なことになっている。ベントしなきゃ」
ベントとは、原子炉の中の圧力を下げるために炉内の蒸気を外に逃すことだ。その際に放射性物質も漏出する。ただ、菅野には何のことかわからない。「ベントって何だ?」と聞いた。義理の息子は教えてくれた。
「ベントするってことは、放射能が撒き散らされるってことだよ」
大熊町民の不安は当たっていたのだ。
政府は3月11日夜から段階的に避難指示の範囲を広げていく。
翌12日午前5時44分には双葉病院とドーヴィル双葉が含まれる10キロ圏内に対して避難を指示した。大熊町長の渡辺利綱には、首相補佐官の細野豪志から直接電話でその指示があった。
大熊町長、双葉病院を確認せず避難(12日午前5時44分~午後2時)
双葉病院院長の鈴木は、10キロ圏内からの避難指示を大熊町の防災無線で知った。
患者をどうすればいいだろう。
「寝たきりの患者は搬送すると衰弱する。かえって危険だ。だが病院内に留まった場合は、原発の状況が悪化して物資や食料も届けてくれない状態に陥るかもしれない」
鈴木は、患者と職員を全員避難させることにした。
そこへ、大熊町が住民を避難させるためのバスを用意しているという情報が入る。
救急車の方がいいのだが、非常事態だ。バスでの避難でも仕方がない。点滴を外したとしても、最低12時間は大丈夫だ。鈴木はすぐに病院の職員を町役場に行かせ、バスを双葉病院まで回すよう頼んでもらった。
しかし、バスはちっとも来ない。病院の職員が12日の午前中に何度も役場にかけ合いに行ったが来ない。役場の担当者は「住民たちの避難が終わってからバスを手配する。待っていてくれ」。
正午、ようやく5台のバスが双葉病院に横付けされた。鈴木は各病棟のどこに患者がいるか見て回り、看護師や職員がバスに患者を乗せる作業を担った。
午後2時、バス5台は209人を乗せたところで満杯になった。搬送の患者の世話をするため、看護師と職員は全員がバスに乗り、双葉病院を出発した。
この時点で、双葉病院には患者129人、ドーヴィル双葉には入所者98人、計227人がまだ残っていた。院長の鈴木も、第二陣のバスが来るものと思って病院に残った。ドーヴィル双葉でも施設長らが残った。
ところが、それきりバスは来なかった。
町長の渡辺は、双葉病院からの避難は完了したと思い込んでいた。双葉病院とドーヴィル双葉の227人と鈴木院長らを残したまま、渡辺は避難先の田村市に向けて出発した。
旧大熊町役場=2021年3月2日、渡辺周撮影 (C)Tansa
町長の渡辺はなぜ、227人を残して避難したのか。
2012年5月15日、政府事故調からの聴取に対して次のように証言している。
「自衛隊のトラックに対して、双葉病院に向かってくれということを頼んでいる。自衛隊のトラックが双葉病院に向かったことは確認している。自衛隊側が病院職員と話をしてしかるべき措置をとってくれるだろうという認識だった」
しかしこの日、自衛隊のトラックは双葉病院で救助活動をしていない。渡辺は、自衛隊が双葉病院に到着して患者の救出を完了したかどうかは確認せずに「避難完了」としたことになる。
町長を引退し、今は大熊町で暮らす渡辺を取材した。
ーなぜ、双葉病院の避難が完了したことを確認しなかったのか。
「確かにきちっと確認しなかったっていうのは落ち度だな。でも(町民)1万人を現実的にね、朝から(避難指示の)連絡が来て、じゃあできる限り避難しましょうってのは、目が届かないことがあるんですよ。そんなにキチッとできるんだったら誰も苦労しないでしょ」
ー双葉病院の避難を自衛隊に頼んだ際に、自衛隊員に具体的な指示をしたのか。
「我々が自衛隊さんに、ここに行ってください、こうしてくださいなんていう形のことはなくて。自衛隊は自衛隊の組織系統があって、そういう命令系統で動いてますから。自衛隊から(双葉病院に)行ったけどどうでしたって連絡もなかったし」
ー双葉病院の状況について、田村市に避難している間も連絡は来なかったか。
「来なかったですよ。双葉病院のことはマスコミ報道で後から知りました」
渡辺は、自衛隊の命令系統は別であることを理由に具体的な指示は出さなかったと明かした。自衛隊には双葉病院の救出をお願いしたものの、自衛隊からの結果連絡もなかったという。
行政と自衛隊の間に連携はなかった。そのことが、双葉病院とドーヴィル双葉の救出にあたり、次々と問題を起こしていく。
=つづく
(敬称略、肩書きは当時)
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