知らない間に子どもを産めない身体にされていたとしたら、あなたはどうしますか。
第2次世界大戦の敗戦から3年後の1948年、優生保護法という法律ができました。法律は1996年に母体保護法に変わり、強制不妊手術はできなくなりました。その間に国家に強制的に不妊手術を受けさせられた人は、男女合わせて1万6500人を超えました。子どもが産めなくなると知らないまま手術を受けさせられた人もいます。優生保護法は、本人がいやがった場合はだましてもいいとまで解釈されていました。
優生保護法の目的は「不良な子孫の出生を防止する」(同法第1条)でした。敗戦後、「日本民族の再興」を目指した政治家たちの発想でした。遺伝性とされた疾患や障害を持つ人が対象でした。手術の対象は、遺伝性のない疾患や障害を持つ人、そもそも疾患も障害もあるとはいえない人にまで広がり犠牲者は増え続けました。
被害者の多くは今も生きています。しかし、政府は被害者に対して補償も謝罪もしていません。シリーズ「強制不妊」では、「公益」を理由に憲法で保障された基本的人権を蔑ろにした国家の責任を問います。
ワセダクロニクルは、2017年8月から47都道府県への情報公開請求や全国各地の公文書館、国立国会図書館などで文書を入手してきました。行政がどのような意図で強制不妊の実施を進めてきたのかが大量の文書の中に刻まれていました。
今回は、国の要請を気にしながら、強制不妊手術の実績を競って増やしていった自治体の実態を明らかにします。
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強制不妊手術 優生保護法第1条は「不良な子孫の出生を防止する」とし、「精神分裂病」「精神薄弱」「そううつ病」「てんかん」「血友病」など、遺伝性とされた疾患や障害を持つ人たちが対象になった。手術に本人の同意は必要なく、都道府県が設置する優生保護審査会の決定があれば不妊手術ができた。医師は「遺伝性の疾患」を持つ人を見つけた場合は、審査会に申請する義務があった(優生保護法第4条)。また、厚生省公衆衛生局通知(1949年10月24日付)では「やむを得ない限度において身体の拘束、麻酔薬の施用又は欺罔(ぎもう)等の手段を用いることも許される」とされた。つまり本人が嫌がって手術ができない場合は、身体の拘束や麻酔の使用だけでなく、だまして手術してもいいとされたのである。男性の場合は精巣から精嚢(せい・のう)につながる精管を切断、女性では卵管を糸で縛り、卵子が卵管を通過しなくする。出典:中山三郎平『現代産科婦人科学大全 第9巻《不妊症 避妊》』(中山書店、1970年)、優生保護法施行規則。
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おことわり 入手した資料には差別的な表現も含まれていますが、当時の状況や実態を正確に伝えるため、原文通りに引用します。
強制不妊手術『千件突破を顧りみて』
47都道府県で最も手術をした人数が多かったのは2593人の北海道だ=文末グラフ。
北海道の衛生部長から京都府の衛生部長に宛てた1956年3月8日付の「送り状」が、公文書館の京都府立京都学・歴彩館(京都市左京区)から見つかった(注1)。
送り状のタイトルは「優生手術(強制)千件突破の印刷物の配布について」。
次のように記されている。
「強制優生手術の審査件数は、医師、審査委員その他関係各位の協力により年々増加しその数は一〇〇〇件突破をみるに至りこの実態を別添のとおり印刷致しましたので参考のため配布致します」
つまり北海道の衛生部は、道内での強制不妊手術が1000件を突破したことについて「件数においては全国総数の約五分の一を占め他府県に比し群を抜き全国第一位の実績を収めている」(*2)と誇り、『優生手術(強制)千件突破を顧りみて』と題する16ページの記念誌を京都府の衛生部長に送っていた。この記念誌は、北海道衛生部と北海道優生保護審査会(*3)が作成した。
どんな内容だったのだろうか。
「民族衛生の多大な意義」
北海道は、強制不妊手術について「千件突破の実績を収め、優生保護法の面目を持し民族衛生の立場からも多大の意義をもたらした」(*4)としている。
中には「強制優生手術から拾った悲惨な事例」(*5)として、強制不妊手術の対象になった人で「悲惨」な病歴や家庭環境を持っていた事例が紹介されている。そのような事例を防ぐため、強制不妊手術について「荷う責務は極めて大なるものがある」と記載している。
以下は1956年発行の記念誌からの抜粋だ。戦前の文書ではない。『経済白書』が「もはや『戦後』ではない」とうたい、石原裕次郎主演の映画『太陽の季節』が公開された年に発行された(*6)。赤塚不二夫、藤子不二雄、石森章太郎らが新漫画党を結成した年だ(*7)。当時の状況を示すために見出しも含めて引用は原文のままにしている。差別的で不適切な表現が含まれているが、そのことに留意して読んでほしい。
家族の病歴や犯歴、家庭環境を記述
――「兄弟八人のうち三人が真性てんかん」
「独身。真性てんかん。知能も小学校一年程度。兄はてんかん、二一才で死亡。弟は労務者で二ヶ月に三回位てんかん発作がある。父は会社員で言わば小市民生活で、両親及び他の妹弟五人は特に変わったところはないが、毋方叔父がてんかん。父方叔父は精神分裂病であり典型的濃厚なてんかん家庭」(26歳男性、13頁)
――「発病後も子供三人を生み一人は分裂病」
「既婚、精神分裂病。結婚後一子を生む。二九才で発病。更に子供三人を生み、発病後生まれた次女(一三歳)は、分裂病で入院。あとの二人は未だ一〇歳未満であるが、今後が憂慮される。初めの退院に際し既に優生手術をすべきであった。(42歳女性、13頁)
――「母も妹も分裂病、弟は実妹殺し」
「離婚。精神分裂病。昭和二二年(1947年)結婚。一子分娩、昭和二四年(1949年)発病。離縁となり子供を残し実家に戻る。理由もなく徘徊し、独語独笑あり。徘徊中に妊娠。昭和二七年(1952年)に私生児分娩、勿論相手はわからない。父は農業を営むも変人として社会とは殆んど没交渉。母は軽度の分裂病である。弟は実妹を殺害、精神分裂病」(31歳女性、14頁、カッコ内はワセダクロニクル)
――「社会の害毒やくざの例」
「独身。精神分裂病。小学校の成績は劣等。生来の怠け者。放浪癖があり一五才頃から家により付かず、チンピラと交り、やくざの群に投ずる。トバク常習、ヒロポン常習者でもある。三人兄弟。いづれも私生児。母は決まった夫がなく精神病質の疑いが推考。遺伝歴は確認されなかったが母、本人共に性格異状が推考され、本人の分裂病という疾病の特質性と生来の反社会的性行に伴う公益性から優生手術を行った」(29歳男性、14頁)
――「精薄三代女の乱れた家庭」
「精薄三代女の乱れた家庭。まともなのは、二才と七才の子供だけ。これも将来どうなるかわからない。生活扶助を受けている。実母は精薄であり、実父に逃げられ再婚。この間に生れた本人も又精薄で好色的。本人は義父と関係し娘三人を生む。義父は漁師であるが数年前死亡し、本人は浮浪者を家に引入れ妊娠五ヶ月で人工妊娠中絶。妹娘(一七才、精薄)は又相手不明の妊娠七ヶ月で人工妊娠中絶。姉娘(一九才、精薄)は非常な美貌。炭焼人夫たちにいたづらされやすく僅かの金品で誰とでも関係する。母娘三人そろって病院に収容。せめて祖母の頃にでも措置が構(原文まま)ぜられていれば、この様なことにはならなかったであろう。それにしても問題は二十年以上もこのような家庭を野放しにしていたことである。生活保護法もかかる場合に生活扶助医療扶助を適用するのであれば首をかしげざるを得ないのも当然であろう」(女性=年齢の記載なし、15頁)
北海道「政府が正面から取り組んでいる」
さらに記念誌では、手術を受けた85%が「精神分裂病」であること、北海道で「14万人以上いる精神薄弱と精神病質」の人への手術例が少なく、「遺伝性の身体疾患や奇型」の人は手術事例がないことを指摘(*8)。北海道が道内の関係者向けに「積極的な協力を願いたい」(*9)と手術件数をさらに増やすことを呼びかけている。
北海道のこうした動きは、自治体が単独で実行したものではない。背景には、優生保護法に基づく国家の強い意向があった。記念誌はこう記している。
「国民の素質の向上を図ることは如何なる時代においても必要なことである。まして、新しく起ち上り国力を復興し、明るい文化国家の建設を願う我が国においては最も肝要なものの一つである」(1頁)
「政府が正面から取組んでいることは民族衛生施策の大きな前進と見るべきである」(2頁)
厚生省が都道府県に「努力で成績向上を」
厚生省(現在の厚生労働省)は、強制不妊手術の件数を増やそうと都道府県に強く働きかけていた。
北海道が記念誌を発行した翌1957年の4月27日、厚生省公衆衛生局精神衛生課長で医系技官(医師)の大橋六郎(*10)が都道府県の衛生主管部宛てに出した書簡(*11)には、次のような記述がある。
「優生手術の実施件数は逐年増加の途を辿っているとはいえ予算上の件数を下廻っている実状であります」
「各府県別に実施件数を比較してみますと別紙資料のとおり極めて不均衡でありまして、これは手術対象者が存在しないということではなく、関係者に対する啓蒙活動と貴職の御努力により相当程度成績を向上せしめ得られるものと存ずる次第であります」
「本年度における優生手術の実施につきまして特段の御配意を賜わりその実をあげられるよう御願い申し上げる次第であります」
この厚生省の意向は、全国の自治体担当者に伝わっていた。他の自治体の実績を気にしている自治体もあった。
京都府「精神病院入院患者の1割、手術の対象」
京都府の場合をみてみる。
厚生省公衆衛生局精神衛生課長の書簡に都道府県の実施件数の表が添えられてあった。この表に赤ペンでチェックが入っている。チェックはいずれも京都府より手術件数が多い自治体の欄に入れられていた。
厚生省公衆衛生局精神衛生課長の大橋六郎が各都道府県の衛生主管部長に宛てた書簡の別紙資料。1956年度に実施された強制不妊手術の件数が一覧できる
京都府では、厚生省からの要請を受ける前から、手術件数をあげようとしていた形跡があった。
1955年1月25日衛生部長から府内の各病院長に宛てられた文書は「精神障害者等に對する優生手術の実施方について」だ。
強制不妊手術の府優生保護審査会への申請が少ないことについて嘆き、他府県の強制不妊手術の動向を気にしている。
「申請は極めて少くしかも精神障害者は年々増加傾向にあって誠に憂慮に堪えない」
「参考として大阪府においては各病院において年間二百件以上の優生手術が行われ又兵庫県においても相当な優生手術が行われている現状であり大体において精神病院入院の患者のうち一割程度は優生手術の対象になると推定されます」
手術の協力、障害児施設にも依頼
それから間もない同年3月7日付の文書「精神薄弱者等に対する優生手術の実施方について」は、障害児施設の園長と寮長に宛てられた。子どもたちにも網をかけて強制不妊手術を推進しようとしている。
「収容中の精神薄弱児童のうちにも(優生保護法上の)遺伝性精神薄弱に該当するものがあると思料される」(カッコ内はワセダクロニクル)
「優生手術の実施方について何分の御配慮を願いたい」
「手術に要する費用は、手術の都度本府予算より支払われることとなっているので申添えます」
広島県「他県に比べ申請件数が少ない」「周知不充分」
広島県は、県衛生部長が1964年7月22日、広島市長や県立の保健所長に宛てて文書を出していた。「優生保護法による優生手術の申請等について」と題した文書だ。広島県への情報公開請求で入手した。
「優生手術については、広島県優生保護審査会において取り扱っているが、他県に比べ申請件数が少く、関係機関に対する周知徹底が不充分とおもわれる」
広島県が県内の保健所に対し、強制不妊手術の対象者を探すよう要請する内容だった。
「申請なし」、裁判官委員が問題視
三重県では。
1977年6月17日に開かれた県の優生保護審査会では、1975年度と1976年度に強制不妊手術の申請がなかったことを問題視する発言が記録されている。発言者は、優生保護審査会の委員を務める津家庭裁判所の判事補だった。
優生保護審査会の議事録によると、判事補はこう発言した。
「指導(病院)の方法にあるのではないか。東北では申請が多く出る」
東北地方の手術件数を気にした発言だ。国の政策を忖度して実績を競う自治体――。そんな 構図が浮かび上がってきた。
10代以下の被害者2300人超、9歳の少女も
強制不妊手術は、全国的にはどんな規模で行われていたのか。
厚生省の『優生保護統計報告』などでは、都道府県から上がった年ごとの不妊手術の報告が集計されていた。それによると、強制不妊手術を受けた人たちは、優生保護法が改正される1996年までの約50年の間に全国で計1万6518人に上っている。
1950〜1960年代で強制不妊手術全体の9割を占めている=文末グラフ。「遺伝性」の精神疾患以外にも手術対象を拡大した1952年の法改正の3年後、1955年に最も多い1362人に達した。
男女の内訳が不明な年があるため正確な人数はわからないが、当時の厚生省が把握していた数字を集計すると、女性10,139人、男性4,449人が確認できた(*12)。
宮城県が保有している「優生手術台帳」によると、1963年度と1974年度に、それぞれ9歳の女児に対して手術が行われていたことがわかった。10代と10歳未満の被害者は2390人で、そのうち7割の1680人が女性だった。
京都府の公文書館(京都府立京都学・歴彩館)からワセダクロニクルが入手した「審査を要件とする優生手術実施状況調」によると、12歳の少女も「てんかん兼白痴」という理由で強制不妊手術を受けていた。
年齢別では、20代がもっとも多い4673人で、次いで30代の4667人、10代と10歳未満がその次に続く=文末グラフ。
10代と10歳未満で強制不妊手術を受けた人は、当時の年齢から計算すると、現在は全員81歳以下だ。50代、60代の人も多い。1992年に福岡で不妊手術を受けた10代と10歳未満の女性が、記録に残る最も新しい事例だ。この女性は手術を受けたのが10代であれば、現在40歳前後になっている。
強制不妊手術はすべての都道府県で実施されていた。都道府県別では北海道が2593人で最も多かった。宮城県の1406人、岡山県の845人と続く=文末グラフ。
検察官や判事らが審査
強制不妊手術はどのような手続きで実施されていたのか。
法律上は、医師が該当者を各都道府県の優生保護審査会に申請する。この審査会が手術するかどうかを決める=チャート図。
47都道府県への情報公開請求で得た文書によると、審査会の委員は医師会の会長、次席検事、家庭裁判所の判事らが務めていた。いずれも都道府県県知事の任命だ。
ところが、実際には、北海道、京都府、広島県、三重県の事例でみてみたように、行政が主体となって、該当者を探し、手術件数を増やそうとしていた。
◇チャート図(強制不妊手術の法律上の流れ)
◇グラフ(年代別)
◇グラフ(都道府県別)
Tansaは「強制不妊」に関する情報提供を呼びかけています。「情報提供」をご覧ください。みなさんからの情報が被害者の救済につながります。
(敬称略)
*1 京都府が受領したのは1956年4月5日付。
*2 北海道衛生部・北海道優生保護審査会『優生手術(強制)千件突破を顧りみて』1956年、5頁。
*3 『記念誌』によると、当時の北海道優生保護審査会のメンバーは次の通り。委員長は稲垣是成(北海道衛生部長兼民生部長)。委員は松本剛太郎(北海道医師会長)、蜂須賀芳太郎(北海道地方更生保護委員会委員長)、水島ヒサ(北海道教育委員)、板橋真一(札幌家庭裁判所判事)、太田清之(太田病院長)、中川秀三(札幌医大精神科教授)、諏訪望(北大精神科教授)、小川玄一(北大産婦人科教授)。幹事は井上千秋(北海道衛生部保健予防課長)、山田正夫(同課次長)、荒木正利(同課総務係長)、本間幸雄(同課優生精神係長)、吉川萬雄(北見保健所長)。書記は千葉正美、吉田哲夫、藤井皋(いずれも北海道衛生部保健予防課)。
*4 北海道衛生部・北海道優生保護審査会『優生手術(強制)千件突破を顧りみて』1956年、5頁。
*5 北海道衛生部・北海道優生保護審査会『優生手術(強制)千件突破を顧りみて』1956年、12頁。
*6 古市貞次・浅井清ほか『日本文化総合年表』岩波書店、1990年、418頁。荒井真治・今泉巳智江ほか『20世紀年表』毎日新聞社、1997年、560頁。
*7 荒井真治・今泉巳智江ほか『20世紀年表』毎日新聞社、1997年、560頁。
*8 北海道衛生部・北海道優生保護審査会『優生手術(強制)千件突破を顧りみて』1956年、7頁。
*9 北海道衛生部・北海道優生保護審査会『優生手術(強制)千件突破を顧りみて』1956年、7頁。
*10 1938年京都大学医学部卒業。兵庫県警察部衛生課、国立公衆衛生院、神戸検疫所長などを歴任。出典:大橋六郎「生きがいのある公衆衛生の仕事」『公衆衛生』(30巻第8号)、1966年、29頁。
*11 厚生省公衆衛生局精神衛生課長(大橋六郎)「優生手術実施啓蒙について」1957年4月27日付の書簡。京都府立京都学・歴彩館が開示。
*12 厚生省大臣官房統計調査部『衛生年報』には1953年と1954年の男女別データがない。