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旧動燃は、竹村達也らアメリカ留学組の尽力でプルトニウム燃料の開発に成功した。
動燃東海事業所が1976年に発行した「プルトニウム燃料開発十年の記録」には、竹村と同じアメリカの国立アルゴンヌ研究所に留学した科学者が「想い出」を寄稿している。放射性物質を密閉するための容器「グローブボックス」を、アメリカからの輸入ではなく国産化する際の苦労話を紹介。日本のメーカーのものを試しに使っては注文をつけるということを数年繰り返したと振り返り、こう綴っている。
「プル燃(プルトニウム燃料部)が現在あるのも、動燃職員だけではなく、実に沢山の人々の協力が土台になっていたのだと今更のように感じます」
この他にも21人の動燃職員が記念誌の「想い出」コーナーに手記を寄せた。「桃栗3年柿8年」「プルトニウムのスパルタ教育」などとそれぞれがタイトルをつけて、プルトニウム燃料開発への思いを書いている。
しかし、竹村は手記を寄せることなく退職し失踪した。何があったのか。
1969年、竹村が34歳の時だ。この年、動燃はフランスの高速増殖実験炉「ラプソディー」に核燃料を納めるプロジェクトを始める。
ところが、動燃が納めた燃料は返品されてしまった。燃料はプルトニウムとウランを混合したもので、それぞれの粒が均一になることが必要だった。だが動燃の燃料はプルトニウムの粒の方が大きく固まってしまい、その部分だけが熱を発する状態になってしまった。
このラプソディープロジェクトの現場責任者が、竹村だった。1969年に動燃に入社し、竹村のいたプルトニウム燃料部に配属された元部下はいう。
「あの時は戦場みたいな雰囲気でしたね。竹村さんはフランスから返品されたことに責任を感じていて、話しかけられるような雰囲気じゃなかった。竹村さんの采配で燃料づくりをしたことも失敗したことも、みんな知ってましたから」
竹村は失敗を挽回しようと、部下たちからアイデアを募ってそれを吟味するということを終日やっていたという。土曜日でも働いた。
結局、返品された翌年に「総力を結集して合格品を作れる技術を確立した」(記念誌「プルトニウム燃料開発十年の記録」)。
開発が成功したのち、竹村はプルトニウム燃料部を去り他部署に異動することになる。竹村が動燃での最後を過ごした部署だ。
「左遷だよ」。プルトニウム燃料部でのかつての仕事仲間は口を揃えた。
(敬称略)
=つづく
*北朝鮮による拉致の目的とは何か、日本は核を扱う資格がある国家なのか ──。旧動燃の科学者だった竹村達也さんの失踪事件について、独自取材で迫ります。この連載「消えた核科学者」は「日刊ゲンダイ」とのコラボ企画です。「日刊ゲンダイ」にも掲載されています。
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