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日本原子力研究開発機構(旧・動燃)の敷地に張られた有刺鉄線付きのフェンス。奥にはもう一つのフェンスもあり、二重になっている=2018年11月21日午後0時32分、茨城県東海村村松
1972年に失踪した動燃の核科学者、竹村達也の名は、2013年に警察庁が公表した〈拉致の可能性を排除できない事案に係る方々〉のリストの中にあった。
茨城県警の刑事から「北に持っていかれたな」という言葉を聞いたのは、竹村の部下だった科学者だ。警察が竹村をリストアップする40年以上も前のことだ。そんな前のことを、彼は鮮明に覚えていた。
私は彼に、失踪前の竹村の風体について聞いてみた。
「身長は160センチちょいで、小太り。黒縁のメガネをかけてたな。研究者だから、いつも作業服を着ていたね」
そして、警察庁が竹村のことをリストアップしたことを告げ、掲載されている情報と写真を見せた。
身長は165センチと書いてあり、写真の顔はふっくらとして黒縁のメガネをかけている。科学者の記憶とピタリと一致している。
「そうそう、この顔」
竹村の顔写真を見ながら、声を弾ませた。
竹村はどんな人物だったんだろうか。
「大阪の人で言葉は関西なまりなんだけど、努めて標準語でしゃべろうとする。とにかく生真面目。プライベートで他の人と会話をするようなことはなかったなあ」
当時、竹村や話を聞かせてくれた科学者が住んでいた独身寮「箕輪寮」には80人ほどの動燃職員が住んでいた。東海村にある寮は動燃と道路を挟んで向かい側にある。
寮では、年中仲間同士で麻雀をしたり酒を飲んだり。若者たちはプロレスをして騒いだ。食事は寮の大食堂だ。
しかし、竹村はそうした輪に加わってこなかった。かといってどこかに出かけるということもない。寮と職場を往復しているだけだった。寮の住人の間では、竹村は貯金が趣味なんじゃないか、畳の下に現金を敷き詰めているのじゃないか、などと噂が立ったほどだ。
私に話を聞かせてくれた科学者の同期で、やはり竹村の部下だったという動燃OBもこう話す。
「1人で寮にいてお金も使ってないようだった。自分たちより10歳ほど年上だったし、交流はなかったですね。あの様子だと親しい友達はいなかったんじゃないかなあ」
ただ、竹村の仕事ぶりは真剣そのものだった。部下だった科学者は、自分が駆け出しの頃の竹村とのあるやり取りを、今でもなつかしく思い出す。
(敬称略)
=つづく
*北朝鮮による拉致の目的とは何か、日本は核を扱う資格がある国家なのか ──。旧動燃の科学者だった竹村達也さんの失踪事件について、独自取材で迫ります。この連載「消えた核科学者」は「日刊ゲンダイ」とのコラボ企画です。「日刊ゲンダイ」にも掲載されています。
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