バナナと日本人

(戒厳令の島から)「殺されると思う。帰れない」(9)

2019年08月29日7時34分 木村 英昭

9ヶ月間の訴え

マニラ首都圏ケソン市にあるフィリピン大学ディリマン校。私がこのキャンプを訪れたのは2019年8月18日の午後だった。

そのキャンパスの一角に、「統一労組ナマスファ」の人々が野営していた。スミフルを解雇された人たちだ。彼らはここを拠点に、中央の政府機関などに対してスミフルが直接雇用をするよう訴えてきた。

キャンパスにはお手製の家がずらりと並ぶ。大木の幹を利用してロープを張り、そこに竹や角材で骨を組み、ビニールシートをかける。長屋のようだ。調理場や水浴び場、菓子などが買える小さな店まである。同じ大学の構内の建物に構えるフィリピン人権委員会のトイレを借りて、用をたす。

彼らがマニラにやってきたのは2018年11月。309人が1,500キロを超える道のりを陸路と航路の2班に別れ、数日間かけてやってきた。1,500キロ超の道程は東京から鹿児島に行くよりも遠い。到着したのは11月の27日と28日。飛行機を使わないのは資金がないからだ。フィリピン大統領府が近いメンジョーラ橋からリワサン・ボニファシオ広場へと拠点を変え、この大学キャンパスに移ったのは3月13日だった。

大学構内の一角に張られたテント。ここに住み込んで、中央政府などに訴えを続けてきた=2019年8月20日、フィリピン・マニラ首都圏ケソン市

【地図】スミフルを解雇された人たちが野営のキャンプを張った場所(フィリピン・マニラ首都圏ケソン市)

セノの涙

キャンプには35人が残っていた。

20日の撤収を控え、9ヶ月ぶりに故郷に戻る直前だった。フィリピン労働雇用省の国家労使関係委員会が、スミフルに対し、解雇した労働者の復職を命じる行政命令を出したことを契機に、帰郷を決めた。ただ、スミフルはこの行政命令を拒否した。本当に復職できるかどうかは、不透明なままだ。

ちょうど、赤と水色と白のストライプのテントの下で、ナマスファの理事、ジャミラ・セノ(28)たちが歌っていた。解雇され、収入を断たれた自らの窮状を訴える歌だった。

ユーチューブにアップする予定だ。そのためのプロモーション・ビデオを撮影していた。

歌詞は自分たちで練り上げた。ブルース、フォーク、マーチの3曲ができた。

このときセノたちが歌っていたのはブルース。彼女がメーン・ボーカルだ。

タイトルは「父や母である労働者」。

?

権利のために闘う

そして私たちが正規(雇用社員)になれるように

正規の労働者

私たちが解放されるよう闘う (翻訳・H氏)

【動画】プロモーション・ビデオの収録をするジャミラ・セノ(中央)たち=2019年8月18日、フィリピン・マニラ首都圏ケソン市

セノは仲間たちと一緒に帰路につく。だが、母(57)と長男(7)の待つ自宅には帰れない。

殺されるかもしれないからだ。

2日前の8月16日午後9時27分。セノは試しに、フェイスブックにうその投稿をしてみた。どんな反応があるか確かめるためだ。

「自分の町に着いてよかった。ありがとう」

翌々日の18日、コンポステラ町の友人からセノに連絡があった。

「今朝、国軍の軍人が2人来て、あなたを捜していた。あなたをアカ(共産主義者)だと呼んでいた」

投稿内容が国軍に漏れていると感じた。彼女のフェイスブックは「友達」になった人だけが見ることができる設定だったからだ。

ジャミラ・セノの投稿。すでに故郷に帰ったかのように、うその投稿をした=2019年8月18日、フィリピン・マニラ首都圏ケソン市

長男とは電話や携帯のメッセージで連絡を取っていた。

「帰って来て。寂しい」

「もうすぐ帰れるから」

「お土産を買って帰って来てね。レチョン・マノック(ニワトリの丸焼き)がいい」

「お金ないから、お母さん」

レチョン・マノックは長男の大好物。セノがスミフルで働いていたときは、15日ごとに支払われる賃金でレチョン・マノックを買っていたそうだ。

息子とのやりとりを語るとき、セノは顔を空に向けた。はばからず涙をぬぐった。

「スミフルは、私たちよりもバナナを大切にしている」

家族にもマニラを引き払う時期を「8月中には」とだけ伝え、具体的な日付は教えなかった。危険を避けるためだった。

セノたちの曲づくりは、労働者たちの芸術活動を支援する民間団体がサポートしてきた。

私たちが到着したこの日はプロモーションビデオの撮影日。その団体の中心メンバーで、フィリピン大学の研究員でもあるエドギー・ウヤングーレン(38)も撮影現場に立ち会っていた。

ウヤングーレンは、ワークショップなどを通じ、半年以上にわたってセノたちの言葉に耳を傾けてきた。そしてそれを曲に仕上げた。セノたちの歌声を聞きながら、ウヤングーレンは「家族の安全や母や父への思いを表現したんだ。働く者たちの誇りが感じられるでしょ」。

ウヤングーレンは、この日の朝、プロモーション・ビデオのためにインタビューした2人が泣いていた、と明かしてくれた。「2人とも、家族のもとに帰りたいって、泣いてたよ」

帰っても、家族の元に帰ることをあきらめたのはセノだけではなかった。この2人もそうだった。

曲作りをサポートしてきたエドギー・ウヤングーレン(右)ら=2019年8月18日、フィリピン・マニラ首都圏ケソン市

「胸が痛い」

その2人のうちの1人が、ダンテ・サミナド(45)だ。ナマスファの理事をしている。

「8歳になる息子のことや家族のことを聞かれてね。泣いてしまいました。仲間が自宅に戻れるのはうれしいことですが、自分は帰れない。主なリーダーたちは狙われているから」

90歳になる母は近所の親戚が面倒をみてくれている。

サミナドは「胸が痛い」といい、自分の胸をトントンとこぶしでたたいた。

「スミフルの1日の収益に対して、私たちが求めているのはたった1日750ペソ(約1,500円、1ペソ=2.1円)への賃上げです。私たちは法に則ったことをやっています。たとえ死んだとしても、私は間違ったことをしていません」

そして、もう1人がアレン・モラレス(48)。彼女は「統一労組ナマスファ」を作った単組で会計担当の幹部だった。

彼女は昨年、夫のマニュエル(52)とともに自宅から、国軍の駐屯地に連行され、取り調べを受けた。2018年の2月か3月頃だったと記憶している。

取り調べは夜の10時頃から始まった。「なぜ労組のメンバーなのか?」などと聞かれた。自宅に帰ったのは未明の3時頃だった。自宅に帰った夜とその翌日の夜、国軍が2回自宅に入り込んできた。兵士は「どんな状況かみてこいといわれた」。国軍がわざと銃を室内に置いて帰るのではないかと怖くなった。銃の不法所持を口実に逮捕されるのではないかと思ったのだ。

「帰ったら殺されると思う。帰れない」

セノもサミナドもモラレスも、家族と暮らすことはできない。仲間と一緒にこのマニラを引き上げた後も、家族とは離れた場所で暮らす。

「愛してる」

セノたちは19日の夕方から、イベントを開いた。場所はキャンパスにあるすぐ近くにある建物。フィリピンの人権委員会が使っている場所だ。その2階。約150席の席は満席になった。立ち見も出た。国会議員や労組の中央幹部、学生、弾圧が続く少数民族の支援団体のメンバーも駆けつけた。約9ヶ月間続いたキャンプを翌日に引き払う。マニラでの「最後の夜」に開いた感謝の会だった。

25歳のナマスファ委員長、ポール・ジョン・ディゾンも挨拶に立った。

ーー「9ヶ月ありがとうございました。故郷のあるミンダナオ島にしかれた戒厳令で、労働者の闘いに影響が出ています。船とバスでマニラに来て、スミフルやいろいろな政府機関、大統領府にも私たちの訴えを伝えてきました。マニラに来たことで、様々なグループと出会うことができました。政府の言っていることは本当ではないことを伝えてきました。特に若い青年たちに。昨年12月10日の国際人権デーにも参加し、ミンダナオ島での戒厳令がこれ以上延長されないよう訴えてきました。しかし、延長されてしまいました」

「戒厳令がしかれてミンダナオ島は良くなってきているという人がいますが、違います。土地を持たない農民たちの生活はますます苦しくなっています。私たちの兄弟である少数民族のルマド族たちは立ち退きを強いられたり、学校を閉じられたりしています」

「8月6日には国家労使関係委員会の法執行官が執行令状をもとにスミフルに対して私たちの復職を求めましたが、拒否されました。しかし、私たちの闘いはもちろん続きます。政府が私たちの要求に応えないのですから」

「軍や警察は一軒一軒、私たちの自宅を回り、『政府の仲間になれ』と言っています。しかし、むしろ政府のほうが私たちを反逆者に仕立てているのです」

「9ヶ月間の支援をありがとう。特に青年たちのグループは毎日のように訪問をしてくれて支援してくれました。みなさん、支援してくれてありがとう」ーー

ディゾンも、もちろん家族の元には帰れない。そもそも、2018年11月29日に自宅が焼失してしまった。そのことは第3回 「放火、発砲、そして全焼」で書いた。

スピーチを終えたディゾンに、客席にいたマリア・フソン(28)は拍手を送った。フソンにとってこの日は、恋人のディゾンと久しぶりに会えた日だった。ディゾンは8月16日から台湾・台北市で開催された国際会議に出席し、この日の深夜、帰国したばかりだった。

キャンプに帰ったとき、ディゾンはフソンを抱きしめた。そして、「愛してる。君がいなくて寂しかった」といった。

フソンもまた、スミフルを解雇された一人だった。故郷を離れて9ヶ月間をディゾンたちとマニラで過ごし、スミフルへの復職を訴えてきた。だが、フソンはナマスファで事務局次長を務める。安全のため、彼女も家族の元には帰らない。フソンは「家族は心配していますが、彼との交際を反対はしてません。委員長というのは大変な仕事だから、恋人としてしっかり彼をサポートしていきたいです」。

イベントでは、セノたちの歌が初めて披露された。セノの高音が伸びる。ひときわ大きな拍手が起こった。

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権利のために闘う

そして私たちが正規(雇用社員)になれるように

正規の労働者

私たちが解放されるよう闘う

マニラ最後の日となった20日の夜。テントの片付けを終えた。スミフルを解雇され、収入の道を閉ざされた人たちは午後11時43分、1台の大型バスに乗り、故郷があるミンダナオ島に向かった。ミンダナオ島のダバオ市に到着したのは23日の朝8時だった。

委員長のポール・ジョン・ディゾン(左)とマリア・フソン。マニラを引き上げる日の朝、ディゾンとフソンに「2人の写真を撮ろう」と促すと、フソンは照れた。2人とも家族の元には戻れない=2019年8月20日、フィリピン・マニラ首都圏ケソン市

(敬称略、年齢は取材当時)

=第1部「戒厳令の島から」は終わります。木村英昭、ロベルト本郷が担当しました。

取材パートナー:特定非営利活動法人APLA(Alternative People’s Linkage in Asia)、国際環境NGOFoE Japan、特定非営利活動法人PARC(アジア太平洋資料センター)

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