孤独死が、東京都が運営する公営団地で後を立たない。昨年度は501人が孤独死した。毎日1人以上のペースだ。しかもその数は年を追って増えている。
人生の終幕。家族にも看取られず、独りぼっちで息を引き取ることになるとしたら、そして、亡き骸を引き取りに来る家族がいなかったとしたらーー。
国は戦後の住宅不足を解消するために公営住宅を建てた。地方から上京し、経済成長を支えた人たちにとって「希望の住宅」だった。
だがバブル経済崩壊後の1990年代後半、国は公営住宅の役割を大きく変えた。収入の少ない人や体の不自由な人たちが暮らせる「セイフティー・ネット」の役割を持たせようとしたのだ。
その結果、貧困と高齢化が公営住宅につきまとう。孤独死が多発するようになった。
しかし国は「公営団地と孤独死」の問題に真剣に向き合おうとしているようには見えない。全国の公営住宅でどのくらいの孤独死が発生しているのか。そのデータすら把握していないのだ(*1)。
私たちは都営団地の孤独死の現場を訪ねることにした。東京都の郊外にある都営の愛宕団地。「夢の住宅街」と呼ばれた巨大住宅群・多摩ニュータウンの一角にある。
一人、ベンチで座っていた
都営愛宕団地は、新宿から京王線で30分ほど、京王永山駅から徒歩約20分にある。斜面の坂道に沿って建つ団地は5つのブロックからなり、総戸数は1,698戸ある。スタジオジブリの代表作の一つ、映画「耳をすませば」の舞台にもなった。
その団地で今、高齢者の孤独死が相次いでいる。
5階建ての団地の3階。エレベータはない。鉄扉の玄関には、男性の表札がかかっていた。
〈大塚一良〉
郵便受けはガムテープで塞がれていた。空き部屋のままだった。
大塚さんは独り暮らしで、2年ほど前に部屋の中で亡くなったという。
同じ棟や近くの棟に住む住民に話を聞いた。
大塚さんは、以前は映画会社・松竹の大船撮影所(*2)で衣装係として働いていた。俳優の市原悦子と衣装合わせのことで言い合いをしたこともある、と自慢話を聞かされた人もいた。
愛宕団地は1970年代から入居が始まった。1970年代と言えば、日本経済が大きく飛躍した時期だ。大塚さんはその1971年に入居した。妻と息子2人の4人家族だった。。
映画マンだっただけあって、おしゃれだった。出かける時は、首元にネッカチーフを巻いていることもあった。コーヒー好きで、豆は専門店で買って自分で挽いていた。
1980年代後半、くも膜下出血で倒れた。都内の大学病院に入院した。しかし、足と左手に麻痺が残った。杖をつくようになった。
ところが、退院して戻ってくると、妻と子どもは家にいなかった。大塚さんは独り暮らしになった。団地の中のベンチに1人で座っている姿を見かけるようになる。「情けない」と泣いていた。
亡き骸の引き取り手もなく
大塚さんは、弁当の宅配サービスを利用し、毎日弁当を届けてもらっていた。
同じ棟の住民が弁当の宅配人に聞いた話によると、大塚さんに弁当を届けた際、容体が悪そうだった。そして、応答がなくなった。自宅を訪問しても返事がなかった。本社に連絡した上で警察に知らせた。
警察と消防がやってきて、3階までハシゴをかけて窓から部屋の中に入っていった。
大塚さんは死んでいた。孤独死だった。部屋には血の痕があった。
しかし、大塚さんの別れた家族は現れなかった。遺骨の引き取り手もいなかった。
孤独死は「394戸で14人」
愛宕団地で自治会の役員を務める松本俊雄さん(71)は「孤独死は増え続けている」という。
松本さんが住むブロックは394戸。2018年は14人が孤独死だった。松本さんによると、14年ほど前から孤独死が増え始めたという。ちょうど、日本の人口が減少局面に入り、少子高齢化が一段と進んだ時期だ(*3)。東京都によると、都営団地の契約者で65才以上が占める割合は、67パーセントだった(2017年3月末時点)(*4)。東京都全体の高齢化率の23%を大きく上回っている(*5)。
私たちは団地を歩いていた人に声をかけた(*6)。
若い頃は鮮魚店で働いていた73歳のその男性は、母親を18年前に亡くしてから独り暮らしだ。毎日の楽しみは酒を飲んでタバコを吸うことだけ。足が不自由で杖をついている。
「もう3年くらいしたら、今度は俺が死んじゃう」
杖をつきながら団地の坂道を上っていった。
「俺も人ごとじゃないよ」
やはり独り暮らしの田中嘉一郎さん(73) はいう。
「俺も人ごとじゃないよ」
妻には2007年9月に先立たれた。結婚した娘には1年に1度、墓参りで会うくらいだ。
田中さんは愛宕団地にあるコミュニティーセンター「愛宕かえで館」に毎日のように顔を出す。そこで碁を打ち、タバコを吸うのが日課だ。週に一度は仲間とカラオケで好きな歌を歌う。
「『そういえば、あの人最近来ねえなあ』と思ったら、死んでたなんてよくあるよ」
昨年夏、田中さんが暮らす棟で高齢の女性が亡くなった。
近所の人が女性の部屋の前を通ったとき、おかしな臭いがした。警察に通報した。女性はベッドの上で亡くなっていた。
田中さんはその女性の名前を知らない。年齢も、80歳くらいだろうとしか言えない。
「一度『おはようございます』と挨拶したことがあったけど、無言だった。年をとると、近所付き合いがどうしてもおっくうになる人もいる」
「付き合いもなかったから、葬式にも行けない」
「これまで楽しかった時期も、幸せだった時期もあるはずなんだがね」
「人は、20年後の自分を想像することはできないんだ。どうなるかわからない。だから、今を楽しもうと思っている。孤独死が怖いかって? 覚悟している」
田中さんは年金が生活の頼りだ。食費は1日1,000円以内と決めている。
「そうしないと生きていけない」
◇
新シリーズ「東京物語 : TOKYO STORIES」を始めます。愛宕団地の物語は英紙「ガーディアン」にも掲載されました。“Guardian Tokyo week: How Tokyo’s suburban housing became vast ghettoes for the old”です。
〈脚注〉
*1 国土交通省住宅局住宅総合整備課への取材、2019年6月21日午後1時から。
*2 大船撮影所 神奈川県鎌倉市にあった松竹の映画撮影スタジオ。1936年1月から2000年1月まで。大船撮影所の開所に伴い、蒲田撮影所は閉鎖された。「東洋のハリウッド」と呼ばれ、「東洋一の規模と施設」を誇った。黒澤明や小津安二郎もこの撮影所で数々の名作を生んだ。大船撮影所には様々な設備があり、「無いのは火葬場だけ」といわれた。出典:松竹株式会社『松竹七十史』1964年、281-282頁。同『松竹百年史』2006年、388頁、471-473頁。同『松竹百二十年史』2016年、85頁。同「松竹の映画政策の歴史 Part4〈日本初のトーキー、そして大船撮影所へ〉」「松竹の映画政策の歴史 Part10〈小津調〉」「松竹の映画政策の歴史 Part16〈「職人監督」から「名匠」へ…野村芳太郎監〉」2019年、松竹ウェブサイト(いずれも2019年6月15日取得)。
*3 2005年国勢調査結果(総務省統計局)、朝日新聞2006年6月2日付朝刊「出生率1.25 出生数も過去最低 厚生労働省」、同2005年6月1日付朝刊「生率1.29、最低に並ぶ 04年」。
*4 東京都「都営住宅の状況」、東京都ウェブページ(2019年6月17日取得)。
*5 東京都「住民基本台帳による東京都の世帯と人口」、東京都ウェブページ(2019年6月17日取得)。
*6 2019年5月24日取材。
(肩書きと年齢は取材当時)
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