強制不妊

父からの手紙 連載レポート(20)

2018年06月28日5時54分 加地紗弥香

飯塚淳子が渡った愛宕橋。淳子はこの橋を渡り、その先にあった診療所で不妊手術を強いられた=仙台市若林区土樋

飯塚淳子は1963年1月11日、住み込み先の奥さんに連れられて宮城県精神薄弱者更生相談所に行き、不妊手術が必要だと判断された(*1)。それから間もなくして、愛宕橋を渡ったところにある診療所で手術をされた。

自分の知らないところで、大人たちが勝手に事を進めていった。

だが、淳子はこう思う。

「両親はなぜ止めてくれなかったのだろう」

特に淳子は、父親が手術を受けることを始めから知っていたのではないかという疑念が拭えない。

父親は淳子が手術を受けた診療所まで迎えに来ていた。住み込み先の奥さんは父親に淳子を託し、いなくなっていた(*2)。

父親は病弱で満足に働けず家は貧しく、生活保護を受けていた。母親は山菜採りと行商で働いたが、淳子を含め7人の子どもを抱えて生計を立てるのは大変だった(*3)。母親は赤ん坊だった妹をおぶって川で自殺しようとしたこともある。

淳子が小松島学園に入って「帰りたい」と手紙を送ったとき、父親は「お金がかかるから帰ってくるな」と返してきた。

貧しいことは仕方がない。だが、なぜ自分が不妊手術を受けさせられることを止めてくれなかったのか。

淳子はその後、3度結婚した。だが子どもを産みたくても産むことはできない。結婚生活はいずれもうまくいかなかった。2人目の夫とは相性が良かったが、淳子が子どもを産めないことを知ると出て行った。

父親に対する怒りがこみ上げてくる。

1997年の秋、淳子は日に日に身体が弱る父親に、なぜ不妊手術を止めなかったのかを実家で問いただした。父親は人工透析が1日置きに必要はなほど弱っていて、入院する直前だった。この時、「全部吐いてから死ね」という厳しい言葉までぶつけた。

その年の11月14日、父親から淳子が住む仙台市内の自宅に手紙が届いた。青いボールペンで震える文字がしたためられていた。

「生活保護受けてるのでお母さんでは小供(原文ママ)の教育ができないので子供の施設 仙台の(住み込み先)宅依頼した方がよいとのことで民生委員の先生がしてくれたに相違ありません」(*4)

つまり、こういうことだ。

「実家は生活保護を受けていて淳子の教育が十分にできないので、小松島学園に入れた。その後は仙台市内の家庭に淳子の住み込みを依頼した方がいいと、民生委員が事を運んでくれた」――

手紙には手術のことも書かれている。

「(住み込み先からも)いろいろな急ぐ話が出たので それでは至急手術するように話があったのでせめられてやむなく印鑑押せられたのです(原文ママ) 優生保護法にしたがってやられたのです」(*5)

だが手紙に詳しい経緯はなった。

「詳しくもっと書きたいが 今夜具合が悪いのでこの変で上記のことに相違ありませんので御紹了下さい 父より(原文ママ)」

手紙では父親が娘の不妊手術をなぜ止められなかったのか、よくわからなかった。

父は1998年2月20日、他界した。淳子は、父に「吐いてから死ね」という言葉をぶつけたことは後悔している。

子どもの頃、母親に叱られ家を飛び出た淳子に優しくしてくれたのは父親だ。18歳で上京した時、ミシン掛けの仕事を探してきてくれたのも父親だ。

淳子は今では「父も若い頃から病気をして余裕がなかったのでしょう」と思うようになっている。

(敬称略)

=つづく


*1 詳しくは「運命の判定 【連載レポート】強制不妊(18)」を参照のこと。

*2 詳しくは「愛宕橋を渡ると【連載レポート】強制不妊(1)」を参照こと。

*3 詳しくは「告白【連載レポート】強制不妊(2)」を参照のこと。

*4 カッコ内はワセダクロニクル。手紙の原文には実名が記載されているがここでは省略した。

*5 カッコ内はワセダクロニクル。手紙の原文には実名が記載されているがここでは省略した。

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