飯塚淳子(72)を小松島学園に入所させるきっかけをつくったのは、実家の近所に住む女性の民生委員だった。淳子のことを「サツマイモやスイカを盗んだ」などといい、素行が悪い子どもとして福祉事務所に報告した女性だ。その報告が福祉事務所からさらに宮城県中央児童相談所へと上がり、淳子の入所が決まった。淳子の知らないところで、身に覚えのない情報が行政機関に上がっていたのである。
その民生委員を、淳子は入所後、何度も小松島学園で見かけた。何の目的でわざわざ仙台まで出て来ていたのかはわからない。ただ、小松島学園の職員と話をしていたのは覚えている。
その民生委員はどんな人物だったのだろうか。
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彼女が淳子を小松島学園に入所させることに熱心だったことは、淳子が入所する前に通っていた中学の担任教師が覚えていた。淳子が大人になってから、こんな手紙をよこしている(*1)。
「転校(淳子の小松島学園への入所)に際し私がどんなかかわり方をしたのか、また、学校として教頭・校長からどんな指示があったのかということはまったく記憶しておりません」
「(しかし)民生委員さんが積極的にことをはこばれたという印象だけが強く残っております」
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民生委員はすでに亡くなっているが、親族が淳子の実家があった宮城県内のまち、それと仙台市内にそれぞれ住んでいた。彼らが自宅で話を聞かせてくれた(*2)。
民生委員は、仙台の師範学校を出た後、淳子が住む地域の医師と結婚したのだという。
ひとり息子は小児まひで重い障害があった。話すことも身体を動かすこともままならなかった。
母親であるその民生委員は、2階建ての家の1階で息子を介護した。ものが飲み込めない息子のために、食事は噛み砕いてから食べさせていた。
生活に困った人や悩みを抱えた人がよく家を訪ねてきた。
その中の1人が淳子の父親だった。
淳子の父親は、生活に困窮していて、明日食べる米にも困っていた状況を民生委員に相談していたという。
親族のひとりは「りっぱなおばあちゃんでした」と語った(*3)。親族の話からは、困った人に寄り添い、献身的に尽くす、そんな姿が浮かぶ。
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その彼女が、淳子を小松島学園に入所させるため、積極的に動いたのだ。
学園を運営する団体は「優生手術の徹底」を方針としていた。政財界、教育や福祉の関係者、そしてNHKや河北新報の幹部までが加わり「オール宮城」で運営された団体だ。実際、学園の少女たちは不妊手術を強いられた。第15回「『おとぎの国』の少女たちの行方」でもそのことを書いた。
=つづく
*1 手紙の消印は1996年6月19日。
*2 2018年4月14日午後5時30分と同15日午後2時からの取材で。
*3 2018年4月15日午後2時からの取材で。