宮城県精神薄弱児福祉協会は「優生手術の徹底」を掲げた。同時に、「精神薄弱児」の収容施設を新たに作ることを目標にすえる。建設資金は民間から募ることとし、「愛の十万人運動」と名付けた県民運動を展開した。
マスコミ各社は記事で、この運動を後押した。読売新聞は「精薄児を徹底的に絶やすために遺伝性精薄児の断種も行われねばならない」と書いた(*1)。県民から寄付が集まり、「精薄児」収容施設の小松島学園が仙台市内に開園した。1960年4月のことだ。
学園の運営者は福祉協会だった。
その小松島学園に、中学3年生だった飯塚淳子が1期生として入所した。
なぜ淳子は小松島学園に入所することになったのか。
◆
福祉協会が「愛の十万人運動」を開始したのは1957年2月だ。その時期、淳子は小学5年生だった。卒業後は地元の公立中学校に進んだ。
その頃のことを淳子は思い出して悔しがる。
「近所には私たちの家族に悪意を持っている人たちがいて困りました。私が中学で学級費を盗んだといってきたこともありました。母のことを『体を売ってお金を稼いでいる』ということもね。しかも、それを子どもたちの前で。うそばっかりですよ。なんであんなに嫌われていたのかよくわかりません」(*2)
淳子が中学2年生のとき、近所に住む民生委員が、石巻の福祉事務所に、ある相談をした。
「淳子はサツマイモを盗んだ」「淳子は乱暴だ」などという内容だ。淳子には全く身に覚えのないことだ。そんな内容が福祉事務所に伝えられていたことも知らなかった。
相談を受けた福祉事務所が調査を開始する。調査員は近隣住民や中学校の校長、担任に面接した。
1959年11月、福祉事務所は「家庭指導困難な状態にある」として、淳子の一時保護を要請した(*3)。その要請先は宮城県中央児童相談所だった。
この中央児童相談所の所長は小川芳雄という人物だ。東北大医学部の精神科医で、1948年に中央児童相談所の初代所長に就任した(*4)。小松島学園を運営する福祉協会が1957年にできてからは、福祉協会の参与と幹事を兼ねた。
小川は、福祉協会長の内ヶ崎贇五郎(当時、東北電力社長)(*5)に文書を送付した。タイトルは「小松島学園入所予定児童名簿の送付について」。福祉協会は1960年2月3日に受け取る。
文面は2行だ。
「小松島学園の昭和35年度(1960年度)第1次入所児童を名簿の通り内定したので通報します」(*6)
名簿には40人が記載されており、その中に淳子の名前があった。
◆
福祉協会は民間団体だ。県民政労働部母子課長の菅原敏雄は、福祉協会発足後に同課が発行した書籍『精神薄弱児』の中で、福祉協会についてこう書いている。
「純然たる民間運動としてもり上つてきたというのは、何としてもありがたくうれしいことです」
ところが、宮城県の行政機関(*7)である中央児童相談所長が福祉協会の役員を務めていた。その中央児童相談所が小松島学園の入所者を選定し、作成した子どもたちの名簿を福祉協会に送っていたのである。
そのことは当時の新聞記事にも記録されている。
小松島学園の開園を伝える1960年4月8日付の河北新報の朝刊だ。河北新報社は会長の一力次郎(*8)が、福祉協会の顧問を務めている。
「差し当たって四十人を選び、ついで十月までにさらに四十人を入学させる予定。ところが県内の精薄児は三万人にも及んでおり、入園希望もすごく殺到したが、県中央児童相談所で選考してこの施設にふさわしい学習効果のあがりそうなものだけにしぼった」
中央児童相談所長の小川のコメントも載っていた。そこには、中央児童相談所が選考に関与していたことが明瞭に語られている。
「限られた人数にムリにおさえたのでやむを得なかった。選考にもれた児童の父兄には本当に気の毒だ」
県の行政機関である児童相談所が民間の「精神薄弱児」収容施設の入所者選定に関与していた。だが、宮城県知事の村井嘉浩は記者会見で「国の法律にのっとったもの」「責任があるということはない」などとして、県の責任を否定している(*9)。
◆
淳子は知らない間に、県の中央児童相談所によって「学習効果があがる」と判断され、「入園希望者」にされ、その一人に選ばれた。当時、入所の対象になった子どもたちは千人程度いた(*10)。
小松島学園は「精神薄弱児」の施設だ。
しかし、そもそも淳子に知的障害はない。
淳子は、小松島学園に入る前に通っていた地元の中学2年の担任からの手紙を大切に保管している。便箋3枚に黒のボールペンで書かれた手紙だ。1996年に届いた。そこには淳子について「いわゆる『知恵おくれ』という印象は残っておりません」と書かれている。
ただ、小松島学園に入る前は学校をよく休み、勉強が遅れた(*11)。
淳子は長女。2歳下の弟、6歳下の弟、9歳下の妹、11歳下の妹、そして淳子が中学に入学して1ヶ月後に生まれた妹がいた。
母は淳子に弟や妹たちの子守を命じた。
「一回休むとね、勉強についていけなくて、家のそばにある山で学校が終わるまで時間つぶしたこともあったの」(*12)
そんな淳子に、両親は何もしてやれなかった。父は病気がち、母は山菜採りや行商で家計を支えるのが精一杯だった。「家庭指導困難」と福祉事務所が中央児童相談所に報告した文書では、淳子の家庭の収入を月9810円と報告している。1960年の労働者の平均月給(賞与込み)が2万4375円の時代だ(*13)。
「貧しさ」が狙われたのか。
ある日、淳子は父から「話がある」と言われた。
(敬称略)
[おことわり] 文中には「精神薄弱」など差別的な言葉が含まれていますが、当時の状況を示すために原文資料で使用されている言葉をそのまま使用しました。
=つづく
*1 詳しくは「新聞記事で『精薄児を徹底的に絶やす』:【連載レポート】強制不妊(11)」を参照。
*2 飯塚淳子への取材、2017年8月30日午後2時30分から、仙台市内で。
*3 石巻福祉事務所の報告は「福祉事務所の報告:【連載レポート】強制不妊(3)」でも詳しく報告している。
*4 宮城県特殊教育研究会精神薄弱教育専門部編『宮城県精神薄弱教育史』宮城県特殊教育研究会精神薄弱教育専門部、1992年、32頁。
*5 1895年9月25日-1982年9月22日。東北電力初代社長。1951年から同社社長を務める。東京帝国大学電気工学科卒業後、大阪電燈に入社。戦後は福島県・会津地方を流れる只見川の電源開発に着手した。「電力業界の伊達政宗」との異名をとる。出典:朝日新聞社編『現代日本・朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、261頁。仙台市2002年12月22日ウェブページInternet Archive”Wayback Machine”(2018年2月24日取得、https://web.archive.org/web/20021222195115/http://www.city.sendai.jp/soumu/hisho/meiyo/#5)。
*6 カッコ内はワセダクロニクル。
*7 宮城県中央児童相談所への取材、2018年4月13日午前11時30分から、電話で。
*8 1893年8月12日-1970年7月7日。河北新報社創業者である一力健治郎の次男。京都帝国大学英法科卒業後、コロンビア大学とオックスフォード大学に留学して主に新聞学を学ぶ。戦時中は、大政翼賛会中央協力会議員を務める。1947年に公職追放令で河北新報社会長を退任するも、1950年に追放解除が発表されると、河北新報社の顧問になり、翌1951年には取締役会長で復帰する。仙台市名誉市民。新聞人としての業績を讃える、東京・千鳥ヶ淵公園の「自由の群像」に名前が刻まれ、顕彰されている。「自由の群像」は電通の創立55周年事業で建設された。ゴルフと旅行が趣味。出典:創立百周年記念事業委員会編『河北新報の百年』河北新報社、1997年、185-265頁。『昭和人名辞典 第2巻 北海道・奥羽・関東・中部篇』日本図書センター、[1987]1993年、底本は『大衆人事録』(帝国秘密探偵社、1943年) 。仙台市2002年12月22日ウェブページInternet Archive“Wayback Machine” (2018年2月24日取得、https://web.archive.org/web/20021222195115/http://www.city.sendai.jp/soumu/hisho/meiyo/#6)。
*9 宮城県知事の村井嘉浩は、2017年12月〜翌2018年3月に開かれた定例記者会見で県内の強制不妊手術について「国の法律にのっとった」などとし、県の責任を否定する発言を繰り返している。村井が強制不妊手術に関して言及した主な会見は、2017年12月11日と2018年2月19日、同3月12日、同3月26日。出典:宮城県ウェブページ(2018年4月16日取得、http://www.pref.miyagi.jp/site/chiji-kaiken/)。
*10 宮城県精神薄弱児福祉協会は「趣意書」のなかで、県内3万人の「精神薄弱児童」のうち児童相談所が直接調べて把握している人数だけでも916人にのぼると記載している。出典:宮城県精神薄弱児福祉協会「宮城県精神薄弱児福祉協会趣意書」。
*11 飯塚淳子への取材、2018年4月4日午後2時から、仙台市内で。
*12 飯塚淳子への取材、2018年4月4日午後2時から、仙台市内で。
*13 厚生労働省『昭和35年労働経済の分析』、厚労省ウェブページ(2018年4月15日取得、http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/roudou/1960/)。
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