飯塚淳子の腹部の激しい痛みは続いた。不妊手術のせいだった。
自分は何も知らされていないのに、両親は知っていた。
突然、子どもが産めない身体にされたことが悲しかった。どこにその気持ちをぶつければいいかわからなかった。泣きながら母に訴えたことがあった。だが母は淳子を激しく叱りつけた。
「いつまでもそしたらこといってんじゃねえ!」(*1)
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ただ、自分の知らないところで大人たちが勝手に事を進めるのは、不妊手術が初めてではなかった。
淳子の手元にA4版8枚の記録がある。宮城県石巻福祉事務所の職員が、14歳だった淳子のことを調べた記録だ。淳子はこの文書を55歳のときに手に入れた。
なぜ自分が不妊手術を受けなければならなかったのか。
情報公開制度があることを知り、たった一人で宮城県や仙台市などとかけ合ってきた。どうしても突き止めたい一心からだった。
やっと入手した記録を読んで、淳子は驚いた。こんなことが書いてあった。
―1959年9月15日、地区の民生委員が石巻福祉事務所に淳子のことを相談しに来た。
―民生委員によると、淳子は叔母と2人で、他人の畑のスイカとサツマイモを盗んだ。それ以来、現金やモノがなくなると淳子に嫌疑がかかるようになった。そのため淳子は、近所の人が立ち話をしていると「自分の悪口をいっているのか」と大声で喚く。
―民生委員の相談を受け、福祉事務所の担当者が、淳子が通う中学校の校長と担任に面接した。淳子は粗暴でクラスでは誰からも相手にされていない。校長以下、よく努力しているが効果はない、などの説明を受ける。
―福祉事務所の担当者は淳子の両親と面談した。父親は「母親の淳子の取り扱いが悪いから皆さんに迷惑をかけるようになった。家でのしつけが普通であればあのようにならなかった」と話した。
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嘘ばかりだ、と淳子は怒る。スイカとサツマイモなんか盗んでいない。
「実家は毎年スイカもサツマイモも植えていた。人のものを持って来なくたって、いっぱいあったのに」(*2)
報告した民生委員は、淳子の家のすぐ近くに住む女性だ。
淳子は「なんで嘘までついて」(*3)と憤った。
もっと不可解に思うことがあった。
民生委員に悪意があったとして、福祉事務所はなぜ彼女の言葉を、確認もせずに鵜呑みにしてしまったのだろうーー。
淳子は福祉事務所の担当者のことを覚えていない。ただ記録によると2人は会っている。
夏が終わり肌寒くなった頃、淳子が畑からサツマイモを抱えて戻ると、福祉事務所の職員が父親と話をしていた。淳子は職員の前に座って、「こんにちは」と挨拶をし、台所の方に行った。職員は記録票に「母と比較すると身ぎれいな感じ、体格は細型であるが健康そう」と綴った。
淳子自身に話を聞くことはなかった。
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その2か月後の1959年11月10日、石巻福祉事務所は宮城県中央児童相談所長あての行政文書を起案した。「宮城県石巻福祉事務所」と記載された業務用の用紙が使われた。タイトルは「児童の一時保護について」。
「左記児童は家庭指導困難な状態にあるので、至急取計らい願います」
「左記児童」とは淳子のことだ。この一文が、淳子を強制不妊手術へと追い込むことになる。
(敬称略)
=つづく
*1 飯塚淳子への取材、2017年10月18日午後5時30分から、仙台市内で。
*2 飯塚淳子への取材、2017年8月30日午後2時30分から、仙台市内で。
*3 飯塚淳子への取材、2017年8月30日午後2時30分から、仙台市内で。
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