アリンコの知恵袋

人のつながりを研究する社会学者「その孤独死は自己責任ですか?」(6)

2019年12月26日16時04分 辻麻梨子

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「アリンコ講座」第6回目は、社会学者で早稲田大学文学学術院教授の石田光規氏が登壇。人間関係が希薄な都市で「孤独死しない、させないために家族以外に頼れるものは何か」を参加者に問いかけた。

石田氏は孤独死や無縁社会を、人間同士のつながりの変遷から研究してきた。東京郊外の「多摩ニュータウン」など常に現場に足を運び、住民の息遣いに触れてきた。

ワセダクロニクルでは今年5月、英紙ガーディアンとの共同企画で多摩ニュータウンの都営団地での孤独死を取材。毎年500人が都営団地で孤独死している実態を報じ、石田氏にもインタビューした。【辻麻梨子】

早稲田大学教授の石田氏。コミュニティでの人間関係をテーマにしたゼミは学生からの人気も高い

「孤独」と「おひとりさま」、線引きはどこに

孤独死の問題にとって難しいのは、「支援を拒否する人にどう向き合うか」という点だ。一人暮らしをしている高齢者が、家族や友人とのつながりを失い孤立した状態にあるのか。それとも煩わしい人間関係を自ら断ち、一人の人生を謳歌する「おひとりさま」なのか…。この2種類の孤独の違いは一見しただけではわからない。

背景にあるのは、人と人との関係性の転換だ。これまでの私たちの社会は、誰もが家族や会社、地域の自治会など、あらゆるつながりの中で生きることが当たり前だった。3世代が同居する家庭や、全員参加の会社の飲み会なども珍しくなかった。時に個人の自由にも反するこのような「強制的なつながり」は血縁や地縁によってつくりあげられた。

しかし、社会の成熟や技術の進歩によって、強制的なつながりの形は少しずつ変わっていった。

代わりに現れたのが、私たち自身が誰とどのようにつながるかを選ぶ「自発的なつながり」である。例えば趣味でのつながりやインターネット上の友だちなど、さまざまな人間関係を自分で選べる。

大きなつながりに縛られないというのは市民社会の基礎だ。放っておかれたければ、一人暮らしをするのも自由だ。あえて周囲と距離を置く「おひとりさま」という言葉まで流行した。

「放っておけばいいじゃないか」

高齢者が一人でいることを望むのであれば、放っておけばいいと思うかもしれない。それで亡くなったとしても本人の責任だ、という人もいる。確かに孤独死は個人的な問題であるように思われる。

しかし、社会にとっては放っておけない重大な問題があるのだ。

まず孤独死の場合、遺体の発見が遅れる。近隣住民が異臭に気がついた時には、すでに腐敗が進んでしまっていることも多い。そうした亡くなり方は尊厳をもつ人としてふさわしくない、という倫理的な見方が当然ある。

さらには住宅のクリーニングや遺体、遺骨の処理も必要だ。家族がいても、遺品や遺骨の引き取りを拒否することがある。行政や不動産業者が作業に奔走する。誰かが看取る通常の死に比べて、無視できないほどの社会的な損失があるのだ。

孤独死に陥りやすい人には、特徴的な背景が見られる。

例えば失業して低収入の人や配偶者と離別した人だ。中でも男性が多い。詳しく事情を聞くと、若い頃から家族との関係性が悪かったり、アルコール依存症だったりすることで、周りと関われなくなっていった場合もある。

そうした人々は社会から排除され、孤立する。一人でいることを自分で選んだように見えても、彼らは周囲と関係がつくれず、つながることを避けてしまうのだ。それを全て本人の自己責任、と呼んで切り捨ててしまってもいいのだろうか。

「行政が友だち派遣?」

では私たちに何ができるのか。

実を言うと、これといった解決策はまだ見えていない。つながりづくりは強制することが難しく、行政などによる支援にも馴染みにくいためだ。金銭的に困っている人に生活費の給付をするのと同じ論理で、まさか行政が「友だち派遣」をするわけにもいかない。

これまでも相談窓口や趣味の交流サロンなどの行政支援は行われてきたが、その場に参加するかどうかはあくまで個人の自発性に委ねられる。孤立しやすい人はそもそもそうした集まりの場には行かないことが多いので、支援が必要な層を取りこぼしてしまう可能性が大いにある。

一人暮らしの高齢者の自宅を巡回する、地域の見守り活動などもすでに行われている。支援者が一方的に行えば不法侵入などのトラブルになる場合もあるため、本人と話し合いながら同意を得ることが大切だ。地域によっては、いきなり訪問するのではなく、インターホンを押すだけなど、本人が希望する確認方法を話し合いながら支援をしているところもある。それぞれの人が抱える事情は異なるため、定型の支援が難しいのが現状だ。

より強制的な方法も検討されてきている。例えば水道を一定期間使っていなければ、自動で行政に通知されるというようなシステムだ。今はポットや冷蔵庫などの家電で、同様の機能を持つものも販売されている。

孤独死したとしても、遺体や遺骨の処理費用を自賠責保険で賄う方法さえ、行政では検討され始めている。自分の死は自分で管理せよ、ということなのだ。

「死の管理」か、それでも「つながり」か

行政が一人暮らしの高齢者の死をすぐに発見できるシステムにしておけば、孤独死を防ぐ一つの手段になる。いわば「死の管理」だ。

今さらつながりの中に入るよりは、事務的に管理された方がむしろ楽だという人もいるだろう。それほどまでに人間関係のあり方は変わり、多くの人が自発的なつながりをつくれないまま孤立して生きている。

今後、高齢者の割合が増え続けるにつれて、孤独死が増えるのは確実だ。孤独死はもはや個人の意思決定という視点で収まる問題ではない。何らかの社会的な対策を考えていかなければならない段階に来ている。

強制的な死の管理を進めていくのか、それともなんとか人がつながり合う方法を探るのか…。つながりを失った日本社会は、重要な選択を迫られている。

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