記者が黙った。国が壊れたーー。
ワセクロは「世界プレスの自由デー」の5月3日、韓国のドキュンメンタリー映画『共犯者たち』を上映するとともに、韓国公共放送KBSのジャーナリストらを招いてシンポジウムを開きます。冒頭の言葉はこの映画のキャッチフレーズです。「満員御礼」、多数の方に応募いただきました。誠にありがとうございます。
映画では、2013年まで大統領だったイ・ミョンバク氏に放送局の経営陣がおもねり、次々に報道がつぶされていく様子が描かれています。弾圧の過程では、多くの記者が解雇されたり左遷されたりしました。
日本でも2014年、朝日新聞の原発事故についての報道が取り消されるという事件が起きました。東京電力福島第一原発の所長、吉田昌郎氏を政府が事故の後に聴取した「吉田調書」についての報道です。政府は吉田調書を秘密にしていたので、報道がなければ明るみに出ることはありませんでした。
「東日本壊滅」。吉田調書では、原発事故時に吉田所長が思い描いたという言葉が記されています。まさに「国が壊れる」瀬戸際だったのです。
しかし、吉田調書報道は朝日新聞社によって取り消されました。取り消しというのは、「なかったことにする」ということです。しかも、ほとんどの記者は黙認しました。「記者が黙った。国が壊れた」ではなく、「国が壊れても記者は黙った」のです。
担当記者2人は懲戒処分を受け、その後朝日新聞を退社しました。そのうちの一人である木村英昭は、私と共にワセクロを立ち上げ編集幹事を担っています。
私は、吉田調書報道を担った朝日新聞の特別報道部にいました。取材班にはいませんでしたが、木村は私の左隣の席でした。間近にいて見聞きしたこと、そして、取り消しについて調べたことをご報告していきます。
ジャーナリズムは誰のためにあるのかを考えるきっかけにしていただければ幸いです。
「汚れつちまつた」3・15
福島第一原発の事故後、放射能汚染により多くの人がふるさとを追われました。今も約4万人の人が避難生活を余儀なくされています。
原発事故の被災者を取材したのは、私が「プロメテウスの罠」というシリーズの「原発城下町」という連載を手がけた時でした。
私が取材した男性はふるさとの大熊町にもう住めなくなっていました。「汚れつちまつた悲しみに」というフレーズで始まる中原中也の詩を書き写すほど落ち込んでいました。東京で五輪が開かれると決まった日には「福島だけが取り残されるようで寂しい」と電話してきました。
では、事故が発生して以降、最も多くの放射性物質が福島第一原発から外に出たのは、いつでしょうか?
意外に知られていないのですが、大地震から4日後の2011年3月15日午前9時です。毎時1万1930マイクロシーベルトという桁違いの線量を記録しました。
「吉田調書」報道とはこの前後に福島第一原発であった本当のことを、政府が秘していた「吉田調書」を入手して報じたものです。
まずは、3月15日のことをご説明します。
吉田所長が見出した「チャンス」
2011年3月15日午前6時42分、福島第一原発の吉田所長は所員約720人にある「命令」を出しました。
「所員たちは第一原発の敷地内の放射線量の低いところにとどまって待機するように」
福島第一原発では前日の3月14日、核燃料が入っている格納容器が壊れるかもしれないという見方が広がりました。壊れれば所員が大量に被曝してしまいます。東電は、第一原発から10キロ離れた隣町の「第二原発」への「撤退」を決めていました。翌3月15日未明、衝撃音が発生します。前夜からの撤退計画が実行に移されることになりました。
ところが、格納容器が壊れているのではなく、圧力を計測する装置が故障しているだけかもしれないという情報が東電本店から届きました。吉田所長は「2号機の格納容器は壊れていないかもしれない」と考えを変えました。
もし、格納容器が壊れていないのなら第二原発に撤退する必要はありません。720人の所員が引き続き原発事故の対応にあたれる可能性があります。
そこで吉田所長は第二原発に撤退してしまわずに、第一原発に残るよう命じたのです。吉田所長はあきらめてしまわずに、ギリギリでチャンスを見出したのです。
9割の所員がいない間に、最高値の放射性物質
ところが吉田所長が見出したチャンスが生かされることはありませんでした。
吉田所長の命令とは裏腹に、720人のうちの約9割にあたる650人が、第一原発を離れて第二原発に行ってしまっていたのです。
しかも、第二原発に行った所員たちの8割以上は翌日の3月16日になっても戻ってきませんでした。東電テレビ会議に記録されています。ところが、このことを誰も問いません。「撤退した所員は戻ってきた」と勘違いをしている人もいます。
650人の所員がいなくなった後の3月15日午前9時、第一原発正門付近で毎時1万1930マイクロシーベルトを記録します。これは福島第一原発事故での最高値でした。その後も、高い放射線量が継続的に放出されていきました。
事故から8年経った今も4万人が避難生活を送る福島の汚染は、この時の放射性物質の流出が大きな影響を与えたと考えられないでしょうか。もし650人が第一原発にとどまり作業にあたっていたらーー。
でもそのことはいまだに検証されていません。
東電会見が伝えなかったこと
吉田所長の「所員たちは第一原発の敷地内の放射線量の低いところにとどまって待機するように」という命令は、第一原発と東電本店をつないだテレビ会議で伝えられました。このテレビ会議は、第二原発や柏崎刈羽原発、オフサイトセンターにもつながっていました。
その2時間後の3月15日午前8時35分、東電は東京で記者会見を開きます。所員は吉田所長の命令に反して、9割にあたる650人が第二原発に行ったあとです。
ところが、東電は記者会見でこう公表します。
--所員は一時的に第一原発内の安全な場所へ移動した--
つまり東電は、所員が吉田所長の命令通りに行動したと、事実とは違うことを記者会見で公表したのです。第二原発に撤退した事実を把握していなかったのか、ウソをついたのかはわかりません。
「過酷事故に誰が対処するのか」
朝日新聞はこの日のことを、2014年5月20日の朝刊で報じました。
1面トップの主見出しは「所長命令に違反 原発撤退」。上記で説明したことを「東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた」と書きました。
2面には当時特報部員だった木村が、「再稼働論議 現実直視を」という見出しで解説を書きました。
「吉田調書が残した教訓は、過酷事故のもとでは原子炉を制御する電力会社の社員が現場からいなくなる事態が十分に起こりうるということだ」
「その時、誰が対処するのか。当事者ではない消防や自衛隊か。特殊部隊を創設するのか。それとも米国に頼るのか」
私はこの記事を読んだ時、「その通りだ」と納得しました。原発の現場責任者である所長でさえ、事故が起きるとコントロールできないのです。現代の科学技術のレベルで、人間社会が原発に頼ることはとても危険だと思いました。
朝日社長「読者に誤った印象を与えた」「関係者を厳正に処罰」
ところが「所長命令に違反 原発撤退」という表現は、「第一原発の所員が臆病で逃げ出したと書いているのに等しい」という批判が他メディアから出てきました。現場が混乱し、所員に吉田所長の言葉が伝わらなかった可能性がある以上、「命令」「違反」「撤退」の三つの言葉の組み合わせは不公平で、所員の名誉を傷つけたという主張です。
では、なぜ「命令」「違反」「撤退」という言葉が記事では使われたのでしょうか。私は木村記者を含む取材班3人に話を聞きました。話を総合すると次のようになります。
(1)「命令」という言葉: 吉田所長は原子力災害の現地対策本部の責任者で、対応の判断と決定は吉田所長が負っていた。吉田所長が「東日本壊滅」をイメージするような深刻な状況で、戦時下にも匹敵する。単なる「指示」ではなく、「命令」だ。
(2)「違反」という言葉: 命令を知らなくても、違った行動をとれば違反だ。一方通行の標識を見落として道路に進入して「知らなかった」といっても、交通違反になるのと同じだ。
(3)「撤退」という言葉: 第二原発に行ったことが故意とはいえないので、「逃げた」という表現は使わないことにした。「撤退」を使ったのは、第二原発が第一原発から10キロ離れていて、何かあってもすぐ戻れない上、9割の所員が第二原発に行ったから。また、撤退の翌日も所員の8割が第一原発に戻っていなかった。
しかし、取材班の主張は聞き入れられませんでした。記事が出てから3ヶ月半後の2014年9月11日、木村伊量社長は、杉浦信之編集担当役員、喜園尚史広報担当役員と共に、突然、記者会見を開き、記事を取り消しました。木村社長は冒頭、次のように述べました。
「朝日新聞は『吉田調書』を政府が非公開としている段階で入手。吉田調書を読み解く過程で評価を誤り、『命令違反で撤退』という表現を使った結果、多くの東電社員らがその場から逃げ出したかのような印象を与え、間違った記事だと判断いたしました。『命令違反で撤退』の表現を取り消すと共に、読者及び東電の皆様に深くお詫びを申し上げます」
そして木村伊量社長はマイクを置き、杉浦、喜園の両役員と共に立ち上がるとお辞儀を6秒間しました。お辞儀が終わるといいました。
「これに伴い、報道部門の最高責任者であります杉浦信之編集担当の職をとき、関係者を厳正に処罰をいたします」
記者会見には、会見を手伝う関係者以外は朝日新聞の社員は入れませんでした。私はインターネット中継で会見を見ながら、こんなことを考えました。
「福島の人はどう思っているんだろう」
その一端を知る機会を、記事の取り消し後まもなくして得ることになりますが、また次回に。
=つづく
葬られた原発報道一覧へ