飯塚淳子が仙台市にある診療所のベッドで目を覚ました時、自分に何がされたのかわからなかった。激しい下腹部の痛みに襲われ、やがて不妊手術を強制された事実を知ることになった。1963年11月のこと。16歳だった。このことは「強制不妊(2)」で詳しく書いた。
誰が何のために自分を不妊手術へと追い込んだのか。
淳子が疑いを持ったのが、住み込みとして働いた家庭の奥さんだ。
淳子がそう思ったのは、奥さんが宮城県精神薄弱者更生相談所に知能検査を受けに行く時に一緒だったからだ(*1)。この知能検査で、「優生手術の必要を認められる」との判断をされ、不妊手術を強いられる契機になった。
何より愛宕橋を渡ったところにある診療所に連れ出したのは奥さんだ(*2)。
そもそもこの奥さんは自分のことを「他人の子だから憎たらしい」などといって辛くあたったことを考えると、わざと自分のことを差し出したように思えてならないーー。
◆
不妊手術をされた理由を知りたかった。
もう30年以上が経っていたが、淳子は仙台市内に住む奥さんの自宅に何度か電話をした。1993年から1997年にかけてのことだ。淳子は電話での会話内容の一部をメモしている。
メモによると、こんなやりとりが交わされた。
淳子「なぜ私のことを子どもが産まれないようにしたのですか」
奥さん「市役所から2人来た。私は淳子に1人でもいいから子どもを産ませてやってくれと頼んだが、『あんたが親でもないのになぜ反対するんだ、反対するなら訴えるよ』といわれた」
淳子は納得がいかなかった。
自分にも子どもを産ませてやりたいと思うなら、なぜ自分のことを県の精神薄弱者更生相談所に連れて行ったのか。そのせいで淳子は不妊手術を受けさせられることになった。
電話をするたびに問い詰めた。奥さんはいつも怒鳴り声になった。
奥さんのこんな言葉も書き留められていた。
「小松島学園にいた子は全員が優生手術をされたんだ。私には関係ないわよ」(*3)
◆
私たちは奥さんから話を聞くことにした。
2017年12月16日、仙台市に暮らす奥さんの自宅を訪ねた。閑静な住宅街にある戸建に暮らしていた。
インターフォンを二度ならした。
同居している長男が玄関を開けてくれた。淳子が住み込みしていた当時は小学生だった。事前に取材したい内容は手紙で送っていた。
長男は「うちのお袋はもう97ですから、痴呆症というか、あっぺとっぺですから」といった。
「あっぺとっぺ」とは、宮城県の方言で「つじつまの合わないこと」という意味だ(*4)。
長男が玄関先でそういっている最中、奥さんが廊下に現れた。
長男の後ろをゆっくりと横切った。向かって右側の部屋に入っていった。
背中は丸まり、白髪に黒いカチューシャをつけていた。一瞬、こちらを見たが目に力はなかった。
◆
私たちは「淳子さんの手術についてお母さまから何か聞いておられませんか」と尋ねた。長男はこう答えた。
「なんか小松島学園の方から頼まれて、彼女(淳子)を説得したみたいなことをいってくることはありましたね」
小松島学園は「優生手術の徹底」を掲げた宮城県精神薄弱児福祉協会が運営していた。
長男の証言通りなら、小松島学園は淳子が退所したあとも「優生手術の徹底」のため、追いかけてきたことになる。
その福祉協会は、政財界、教育・福祉団体、メディアの幹部たちが「オール宮城」で結成した団体だ(*5)。福祉事務所や更生相談所といった行政機関と一体となって網を張り、淳子を不妊手術に追い込んでいった可能性がある。
(敬称略)
=つづく
*1 詳しくは「運命の判定 【連載レポート】強制不妊(18)」を参照のこと。
*2 詳しくは「愛宕橋を渡ると【連載レポート】強制不妊(1)」を参照のこと。
*3 小松島学園を指導官を務めた三宅光一の証言も参照のこと。詳しくは「『おとぎの国』の少女たちの行方 【連載レポート】強制不妊(15)」で記述している。
*4 佐藤亮一『都道府県別 全国方言辞典 CD付き』三省堂、2009年、34頁。
*5 詳しくは、「オール宮城で「優生手術の徹底」、NHK・河北新報の幹部も顧問に 【連載レポート】強制不妊(5)」などを参照のこと。
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